人生を笑い飛ばして去っていく……わけにもいかず草抜いている
大下一真『即今』
大下一真の第四歌集『即今』(2008年)に収められた一首です。
「人生を笑い飛ばして去っていく」のが主体にとっての理想なのでしょうが、現実はそのようにはいかないということでしょう。
特に「笑い飛ばして」のところです。人はいずれ人生を去っていくものですが、その去り方をどのようにするのか、どのようにできるのか、というところに、その人の人生そのものが表れるといってもいい過ぎではないかもしれません。
「笑い飛ばして」いけたらどんなにいいか、それは主体の思いではありますが、この歌の読み手にとってもそのように去っていけたらいいなあと感じさせてくれるものがあります。
さて、三点リーダー二つの後に続くのが、「わけにもいかず草抜いている」です。
笑い飛ばして去っていきたい、そうはいっても簡単にそのようにはならず、主体が草を抜いている場面がクロースアップされています。おそらく雑草でしょう。雑草は抜いても抜いても、また時間が経てば生えてくるものですから、人生という時間の中で、草を抜くという行為を何度も繰り返しているのかもしれません。
ただ、草を抜いている場面に悲壮感はあまり感じません。むしろ、その現実にしっかりと向き合い、起こり得ることをありのまま受け入れているように感じます。
草を抜くという行為は、ある意味主体的であるともいえるでしょう。荒れ放題になるかもしれませんが抜かずに放っておくという選択肢もあるなかで、草を抜くということを選択しているわけであり、草を抜くにはある程度力を入れる必要があるでしょう。そういう点では、草を抜いているという状況自体が、無気力で投げ出しているような気持ちには感じられないのです。
集中、次のような歌も収められています。
生くるとは思い出積むこと捨てること抜かれし草が夕べを匂う
かくあれと願いながらにかくあれずあした夕べを落葉掃き寄す
生きるとは美しきより強きこと紫陽花覆いてゆくやぶからし
なるようになりてかくありなるようになりてゆくなりこの世というは
作者は歌人であり、僧侶でもあります。掲出歌を始めとして、歌集に収められている歌は、自身の寺における草や植物に関して詠ったものが多いと思います。草を抜いたり、落葉を掃いたりするのは、寺の維持管理にも関わることなのでしょう。
掲出歌やここに引用した歌など、人生について考えさせられるとき、そこには草や植物が登場していることが多く、人生を思うということは日常の行いに直結したものなのかもしれません。
掲出歌に戻れば、草を抜くという行為の力強さがあれば、いつかきっと人生を笑い飛ばして去っていけるのではないか、そんなふうにも感じさせてくれる一首だと思います。