いまはただ春の麒麟にあいたくて卵サンドをつくっています
岸原さや『声、あるいは音のような』
岸原さやの第一歌集『声、あるいは音のような』(2013年)に収められた一首です。
一読、明るさに満ちていて、わくわくうきうきする歌です。
「春」のやわらかで穏やかで、そして心地いいイメージに、「麒麟」が登場します。
漢字で書かれているので、中国に伝わる伝説上の生き物を指すとも考えられますし、動物園でも見かける首の長い哺乳動物を指しているとも考えられます。
ここでは、後者の哺乳動物の「麒麟」を指していると捉えておきたいと思います。
「春の麒麟」というように、「春の」と限定的にいわれるだけで、それ以外の季節の”夏の麒麟”、”秋の麒麟”、”冬の麒麟”が一瞬浮かび、それらの季節の麒麟と「春の麒麟」には違いがあるということが読み手に提示されるでしょう。「春の麒麟」には、春のイメージが麒麟にも伝わって、麒麟自体がやわらかであたたかく、明るいイメージをもっているように感じられます。
そして下句で「卵サンド」が出てくるのですが、ピクニックにでもいくのでしょうか。
「卵サンド」からも明るいイメージが感じられ、「春の麒麟」ととてもよく呼応しているように感じます。
「あいたくて」からは、本当に春の麒麟に会いたいという主体の気持ちが表れているでしょう。その会いたさは、「いまはただ」というさりげない導入や、「春」「麒麟」「卵サンド」といった言葉、そして「つくっています」というですます表現が複合的に絡み合って、生み出されたものかもしれません。
色々と述べてきましたが、あまり難しいことを考えず、読んだときの心地よさ、楽しくなる気持ちを素直に味わいたい一首です。
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