レプリカを何体も置きあとずさるさういふことだ生きのびるとは
山田富士郎『羚羊譚』
山田富士郎の第二歌集『羚羊譚』(2000年)に収められた一首です。
「生きのびる」ことはどういうことかを定義していますが、それは「レプリカを何体も置きあとずさる」ということだと詠われています。
「レプリカ」とは複製品や模造品を指す言葉ですが、ここでいう「レプリカ」は、「何体」「あとずさる」という語から、自分自身の複製品のようなイメージを差し出しているように思います。
四句には「さういふことだ」とあり、あたかも「生きのびる」ことの定義は当たり前であるかのように詠われていますが、「レプリカを何体も置きあとずさる」というのはなかなかどうして納得した像を結ぶのは難しい定義ではないでしょうか。
自分自身の複製をいくつも置くということは、現実として具体的に目に見える実体があるわけではありません。想像したのは、時間の経過を伴った、その時々の自分自身の姿をいくつも残しながら生きている状況を指しているのではないかということです。
わかりやすく動画のイメージでいうと、例えば走り幅跳びの選手のフォームが瞬間瞬間で切り取られ、その画像が同時に画面に映されるような感じを想像しました。専門用語ではフリーズフレームという語がありますが、そのフリーズフレームを重ねあわせた動画や、あるいは分身・残像映像のようなものをイメージしてもいいかもしれません。
ここでは「生きのびる」とあるので、ある一瞬の出来事というよりも、ある程度長い時間における残像のようなもの、または主体の幼い頃からある程度成長した時点までの姿が複数現れている映像のようなものが浮かんできます。
生きていくなかでその時々の自分自身というのは、過ぎ去ってしまえば、自分自身でありながら自分自身ではない、いわば複製品のような位置づけになるのかもしれません。それをここでは「レプリカ」という端的な一語で表現しているのではないでしょうか。
「あとずさる」には前を向いたままで後ろに下がるという意味もありますが、尻込みするという意味もあり、人生において思いきった行動をせずぐずぐずとしてその場をやり過ごすということが、「生きのびる」ということなのかもしれません。
具体的に捉え難くうまく説明しにくい歌ですが、何度も読み返し「生きのびる」とは何かを考えたくなる、とても気になる一首です。