煙草吸う友は煙草の自販機の場所に詳しいそれだけのことだ
松村正直『駅へ』
松村正直の第一歌集『駅へ』(2001年)に収められた一首です。
自動販売機は、飲み物を売る販売機のイメージが強いですが、販売するものは何も飲み物に限っているわけではありません。「煙草」の自動販売機もよく見るものでしょう。
掲出歌には、「煙草の自販機」が登場しますが、煙草の自販機そのものを詠った歌ではなく、自販機が設置されている「場所」について触れた歌です。
歌意は難しくないでしょう。「煙草吸う友」が「煙草の自販機」が設置されている「場所」について「詳しい」ということを詠っています。おそらくその友は、煙草の自販機がある場所をいくつも知っているのでしょう。そしてどのあたりに多く設置されているか、そして自販機と自販機との距離や、自販機への効率的な道順なども熟知しているのかもしれません。
“ジュースをよく飲む友はジュースの自販機の場所に詳しい”とはあまり聞きませんが、煙草の場合は何となくそういうこともあるかなと納得させられます。
さて、結句の「それだけのことだ」ですが、ここにはやや複雑な思いが表れているかもしれません。
「煙草の自販機の場所に詳しい」ということに対して、詳しいからどうした、という思いはおそらくあるのではないでしょうか。このあたりは煙草を吸うか吸わないかによっても変わってくるでしょう。煙草を吸う人にとっては場所の情報は役に立つかもしれませんが、煙草を吸わない人にとっては、煙草の自販機の場所の情報はあまり役に立たないでしょう。
しかし、吸う吸わないに関わらず、「詳しい」というところに若干の尊敬に似た気持ちというものがあるのかもしれないと感じます。自分にとってその情報が役立つ役立たないということは置いておいて、あるひとつのことに対して集中して詳しくなれるということは、それだけで素晴らしいと思えることが多いのではないでしょうか。
ここでは「煙草の自販機の場所」への詳しさでしたが、何に対してでも構わないでしょう。むしろ、直接的に役立たないことの方がより素晴らしく思えるかもしれません。「煙草の自販機の場所」は世間一般でいえば、それほど役立つ情報とは思えませんが、だからこそ「煙草の自販機の場所」に詳しいことが輝くのだと思います。
「それだけのことだ」といった主体にとって、果たして自分にとって、友の「煙草の自販機の場所」に相当するほどのめり込むもの、詳しいものがあるのかどうか、そのような問いかけが滲み出ているように感じる一首で印象に残ります。。