春の日の「歩」が「と」に変はるさみしさに三十代も後半に入る
田村元『昼の月』
田村元の第二歌集『昼の月』(2021年)に収められた一首です。
季節は春でしょう。冬が終わり、だんだんと暖かくなっていく季節に、主体は年齢を重ねていきます。
「三十代」とひと口にいっても、三十になったばかりと、三十代の終わりとでは大分異なるでしょう。最大十年近い差があるわけですから、状況も考え方も随分と変わってくると思います。
この歌では「三十代も後半に入る」とあり、これまで三十代前半だったけれど、三十代の後半の春を迎えたことがわかります。
年齢を重ねることをどう捉えるか、肯定的に捉えるのか、それとも否定的に捉えるのかは、その年齢や状況によってさまざまに感じるところがあるでしょう。ここで、三十代後半となった主体が感じたのは、「さみしさ」だったのです。
そのさみしさは、「「歩」が「と」に変はるさみしさ」なのです。
将棋の駒で「歩」は、一手でひとつ前に進むことしかできません。しかし、相手陣に入ると「と」(と金)となり、金将と同じ動きをする駒に成ることができます。
もちろん将棋の局面にもよりますが、通常は「歩」よりも能力アップした「と」の方が、将棋の勝負の上では有利となります。けれども、主体はその”成り”に「さみしさ」を感じているのです。そして、その「さみしさ」を自分が三十代後半になったことと重ねているのです。
なぜさみしいのでしょうか。
主体は、ひょっとすると齢を重ねるごとに、職場や家庭などでの役割が増してきたのかもしれません。例えば、職場であれば、役職なしの職員だったのが、年が経過するにしたがって、監督職や管理職といった役職がついていったのかもしれません。職場以外でも、コミュニティの中での立ち位置が変わっていったのかもしれません。
最初は「歩」だったのに、だんだんと「と」のようなポジションになってしまっていくことに「さみしさ」を感じているのではないでしょうか。「と」のポジションになることで得たものがあれば、失ってしまったものもあるのでしょう。
そう考えると、「歩」は前にしか進めませんが、その愚直さや素直さといった面が懐かしくも感じられます。一旦「と」に成ってしまうと、自分の意思では「歩」に戻ることはできません。「歩」は「と」になれますが、相手に打ちとられる例外を除いて、「と」は「歩」には戻ることはできないのです。一方通行ともいえるでしょう。
「と」に成ることは、ある意味成長ではありますが、同時に「歩」には戻れないさみしさを抱えているように感じます。それは嘆くような深刻な感情ではありませんが、全肯定の気持ちともまた違うでしょう。
春の日のなかのやわらかな「さみしさ」が感じられる歌で、印象に残る一首です。


