カップ麵にお湯注ぐとき思うんだこうやってお湯降ってくるでしょ
大前粟生『柴犬二匹でサイクロン』
大前粟生の第一歌集『柴犬二匹でサイクロン』(2018年)に収められた一首です。
カップ麺を詠った歌ですが、この歌が何を伝えようとしているのかを考え出すとなかなか難しいと感じます。どういう意図からこの歌が生まれ、どういう思いを読み手に伝えたいのか、正直はっきりと示すことができません。
いえるとすれば、構造としては上句と下句で視点の位置が変わっており、その視点の転換を楽しむことがひとつの読み方かと思います。
上句は「カップ麵にお湯注ぐとき」とあり、カップ麺をつくる際にはお決まりの行動です。そのときに主体は”あること”を思うのです。
“あること”というのが下句で、「こうやってお湯降ってくるでしょ」という部分がそれに当たります。
この下句は、お湯を注ぐ側からの視点ではなく、お湯を注がれる側の視点、つまりカップ麺の側の視点から生まれた言葉ではないかと思います。
特に「降ってくる」という言葉が、注ぐ側ではなく注がれる側であることを示しているでしょう。カップ麺側の気持ちを詠んでいるのかもしれません。
ただ「こうやってお湯降ってくるでしょ」で終わっているため、カップ麺側の気持ちがうれしいのか悲しいのか、「こうやってお湯」が降ってくることがつらいのか待望だったのか、そのあたりがはっきりとは示されていないでしょう。
カップ麺にお湯を注ぐという一場面において、お湯の注ぎ方あるいは注がれ方に注目することは珍しいと思いますが、その一場面に注目し、また視点の転換を感じさせる詠い方から、不思議な魅力をもった一首で、一読忘れることができない歌だと感じます。