次の歌の【 ① 】に入る言葉は何?
〈わが【 ① 】を半分にして凭れたき肩あり春の電車に揺れる〉 (花山周子)
A. 体積
B. 年齢
C. 学業
D. 黙考
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A. 体積
わが体積を半分にして凭れたき肩あり春の電車に揺れる
掲出歌は、花山周子の第一歌集『屋上の人屋上の鳥』の連作「アヒル池」に収められた一首です。
どこか夢を見ているような感覚を覚える歌ですが、それは「春の電車に揺れる」という状態とも関係しているのでしょう。
ここでは電車の中で立っているのか、座っているのかは明示されていませんが、下句の穏やかな場面から座っている状態として捉えたいと思います。
隣に座っている人に凭れたいということですが、凭れたいという思いそのものよりも、凭れたい肩があるというところに焦点が当たっているのが面白いと思います。親しい人の肩なのか、たまたま隣に座っている見知らぬ誰かの肩なのか、そのあたりもはっきりとはわかりません。はっきりしているのは「凭れたき肩」がそこにあるということです。
そしてこの歌の一番のポイントが初句・二句の「わが体積を半分にして」でしょう。ただ単純に凭れたいというのではなく、自分の体積を半分にしたいというのです。体重ではなく、体積。つまり空間的な領域を半分にしたいという思いです。
相対的なもので、自分の体積が半分になれば、凭れる先の肩は二倍の大きさとなります。つまり凭れるときは、体積の点から一対一ではなく、自分をまるごと預けられるように自分の体積を半分にして凭れたいという思いが表現されています。一対一で凭れるにはこの「肩」は少し頼りないということでしょうか。それとも頼りなくはないけど、より一層安心して何の不安感もなく凭れるために、体積を半分にしたいということでしょうか。想像し始めるといろいろな場面が行ったり来たりしますが、こういうところにもこの歌の魅力を感じます。
決して「相手の体積を倍にして」などとはいわずに、あくまでも「わが体積を半分して」であるところにも、春のやさしい雰囲気が通じているように感じます。
「凭れたき」であることから、実際には凭れていないのかもしれませんが、この歌を読んだとき、肩に凭れた主体の姿が浮かんできます。肩、春、電車など具体的なものや場面はありながらも読み手にいろいろと想像させてくれる余地を残す歌で、印象に残る一首です。