平和のみきっちりあがるよろこびにしびれていたら「とにかく、来い」と
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』(2004年)に収められた一首です。
「平和」とは麻雀の役のひとつで、比較的よくできる麻雀の基本的な役です。具体的には、面子が全て順子で、雀頭が役牌でなく、待ちが両面待ちになっている場合に成立するものです。
この歌はその「平和」のみをきっちり和了るところを詠っています。
通常、麻雀においては、点数の高い役を狙ったり、複数の役を組み合わせて点数を高くすることを目指すものです。しかし、この歌では、そういった高得点を目指すのではなく、平和のみきっちり和了るところに重きが置かれているのです。あるいは圧倒的優位に立っていて、最後はどんなに低い点数であっても和了るだけで勝利が決定する点棒状況だったのかもしれません。状況は特定できませんが、とにかく平和のみきっちり和了るところが「よろこび」につながる場面であったのでしょう。
そして和了って喜んでいたら、場面は急展開し「とにかく、来い」と呼ばれたというのです。
歌集においては、掲出歌の後には次の二首が置かれています。
母の心臓マッサージする当直の医師の背中が表現だった
腰痛で整形外科に入院し五日後死んだ母肺癌で
掲出歌は「父とふたりぐらし」という一連にある歌ですが、麻雀の途中で「とにかく、来い」と呼んだのはおそらく父でしょう。
この歌においては麻雀という娯楽と、母の急変に関わる前段階の呼び出しとがつなげられ、その落差が非常によく表れた一首だと思います。
呼び出しというものは、思いもよらないところから急に発生するからこそ「呼び出し」なのであり、いい方向にしろ悪い方向にしろ、呼び出しによって状況は加速度的に変わってしまうのです。
さて「平和」と書いて「ピンフ」。なぜピンフという役は「平和」と書くのでしょうか。それは、もともと「平たい和了」を意味していたところから、この漢字が当てられるようになったようですが、「Peace」の意味の「平和」を想像してしまいます。
この歌において「平和」という漢字はとても活きており、「平和」だからこそ「とにかく、来い」が一層効果的に働くのだと感じます。
歌にしなければ忘れてしまいそうな、麻雀を通した感情の動きをこの一首は伝えてくれているように思います。