大いなる球を何度もかくすレバノンの手品に飽きてしまう
髙瀬 一誌『火ダルマ』
髙瀬一誌の第四歌集『火ダルマ』(2002年)に収められた一首です。
「大いなる球を何度もかくすレバノンの手品」とありますが、中東の国レバノンの手品を詠った一首です。
ボールを隠す手品といえば、世界最古のマジックともいわれる「カップアンドボール」が浮かびます。これは、ひとつまたは複数のカップと、いくつかのボールを使って、カップからボールが消えたり現れたりするさまを見せる手品です。
色々とバリエーションはありますが、ひとつのボールと三つのカップを使うケースが多いかもしれません。カップは紙コップでもいいのですが、マジックショップではこれ専用の金属製のカップが売られていたりします。おまじないをかける棒も欠かせません。金属製のカップは、重ね合わせやすいようにつくられていますし、カップの中にボールを閉じ込めやすいように適度な空間が設けられています。
手品は、そのテクニックも大切ですが、やはり取り扱われるグッズの見た目も結構重要でしょう。見た目が安っぽいとどうしても手品も安っぽくなってしまいますが、グッズの見た目が不思議な印象を与えたり、何となく魔法っぽいグッズであれば、それだけで観客を惹きつける充分な要素になり得ると思います。
さて、掲出歌は、ボールを何度も隠す手品のようですが、カップアンドボールかはどうかはわかりません。「大いなる球」と詠われているため、あるいは大きなボールを隠す特有の手品なのかもしれません。
この歌のポイントは、ボールを隠すことを何度も繰り返す手品であり、その手品に飽きてしまったというところでしょう。
手品というものは、「驚き」と切っても切り離せない芸だと思います。観客にとって初見ではとても驚いた現象が、それが何度も繰り返されることで新鮮味を失くし、だんだんと驚きがなくなってしまうということは充分に考えられます。タネはわからなくても、何度も見ているうちに飽きてくることはあるでしょう。
この歌に登場する手品も、手品師の能力が足りなかったのか、どうも主体を飽きさせてしまったようです。手品において「繰り返す」という行為は、巧く使えば驚きを増幅させることができますが、使い方を誤ると驚きを減少させてしまうことにつながります。
結句の「飽きてしまう」という収め方が、本当に「飽きてしまった」感覚をとてもよく表していて、このレバノンの手品を知らない読み手にも「飽きてしまった」感が大変よく伝わってくる一首だと感じます。


