なにもくれなくていいから種明かししながら手品をやってほしいの
安田茜『結晶質』
安田茜の第一歌集『結晶質』(2023年)に収められた一首です。
手品は「種明かし」をしないからこそ、手品として成立するものだと思います。手品の種を研究している者以外にとっては、種明かしをしてしまえば、途端にその手品の魅力は減少してしまうでしょう。
しかし、この歌は「種明かししながら手品をやってほしいの」といっています。
なぜ種明かしをしてほしいのでしょうか。明確な理由を読み取ることは難しいのですが、この歌からは本当に種明かしをしてほしいという思いはあまり伝わってこないように感じます。
それは「種明かししながら手品をやってほしいの」という表現に因るでしょう。種明かしをしてほしいのではなく、種明かしをしながら手品をやってほしいのです。つまり、「種明かし」をしてもらうことが最終目的ではなく、「手品」をしてもらうことが目的なのです。ただし通常の手品ではなく、種明かしをしながらの手品であることが重要なのでしょう。
では、種明かしをしながらの手品というのは一体どういった意味をもつのでしょうか。
種明かしのない通常の手品では、演じる側と見ている側で、種を知るか知らないかという差が必然的に生まれてしまうでしょう。その差があることで、手品は手品として存在を保たれるというところはあると思います。
一方、種明かしをしながらする手品では、演じる側が見ている側に種を教えることによって、種を知っているか知らないかという差が両者の間でなくなっていくでしょう。
主体は、相手との関係性において、その差をなくしてしまいたいと願っているのかもしれません。これは手品を詠っていますが、手品だけに留まった歌ではないように思われます。
「なにもくれなくていいから」というのは、相手から何かモノがほしいというわけではないことを意味しているのだと思います。モノがほしいわけではなく、相手との心理的な差をなくしてしまいたいということなのではないでしょうか。
種を明かして手品をしてくれることは、種を明かさず手品を見せてくれることと大きな違いがあるでしょう。少し踏み込んで捉えると、種を明かして手品をすることは、相手は主体に対して”開示”の意思を示したといえるのかもしれません。
具体物の登場が少ない歌ですが、種明かしと手品、そして主体と相手との関係性についてさまざまに考えさせられる一首だと感じます。