夕雲のひびき寄るとき垂直にして一切の窓は耐えをり
小池光『バルサの翼』
小池光の第一歌集『バルサの翼』(1978年)に収められた一首です。
何かただならぬ予感を湛えているように感じます。
まず朝の雲ではなく夕雲という時点で、何かしら退廃や凋落を想像してしまうことはそれほど難しいことではないかもしれません。もちろん、ただ単に夕方というふうに取れますが、朝と夕を比べた場合、日中を経た一日の終わりの夕の方が圧倒的にあやしさに満ちているのではないでしょうか。
夕雲は視覚的というよりも聴覚的に捉えられています。「ひびき寄る」という表現からは、雷鳴を伴っていると捉えてもいいでしょう。また雷鳴を伴っていなくても、ただならぬ何かの「ひびき」をもって迫ってくるということでしょうか。
さて、そのような夕雲が寄るときに「窓」はどのように存在しているかといえば、「垂直にして一切の窓は耐えをり」と展開されていくのです。
大抵の場合、窓は垂直かもしれませんが、改めて「垂直にして」といわれることで、窓の垂直さがもう一度読み手に再認識されるようになっています。そして窓は耐えているのです。垂直状態で耐えているというところに、倒れずにそこにあり続ける窓の存在感が際立ってきて、より一層必死に耐えている窓の様子が迫ってくるように感じます。
そのとき「ひびき」は振動となって、窓に直に接触してくるのでしょう。主体が窓の内側にいると採ると、そのリアルな手触りが、窓という垂直な媒体を通して、主体にも伝わってくるのかもしれません。
必ずしもあやしさを想像して読む必要はないのですが、どうもこの歌からはあやしく、何ともし難い状況のようなものが感じられ、端的にいってしまえば不気味な印象を受けるのです。
しかし、その不気味さこそがこの歌の魅力であり、脳裏には、寸分の狂いもない窓の垂直さだけが残り続ける、そんな印象の一首だと思います。
