観覧車の歌 #6

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観覧車の短歌

観覧車ひとつずつ倒れ見透しが好くなってゆくある日ぼくらは
我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』

我妻俊樹の第一歌集カメラは光ることをやめて触った(2023年)に収められた一首です。

「観覧車ひとつずつ倒れ」と始まりますが、現実に観覧車が倒れるというのをあまり聞いたことがありません。あるいは、解体されることを「倒れ」といっているのかもしれません。

また「ひとつずつ」とあるので、ここで詠われている観覧車は複数あるということになるでしょう。それは隣接した観覧車なのか、広い地域に点在するいくつかの観覧車をいっているのか、そのあたりも読み手の想像に委ねられているかもしれません。

もしくは、この「観覧車」は、遊園地にある現実の観覧車そのものではなく、何かの喩なのかもしれません。

初句二句でいきなり色々と考えさせられますが、ここでは一旦、現実にある観覧車として読み進めたいと思います。

続く三句四句で「見透しが好くなってゆく」とありますが、これは観覧車が倒れたことによって、それまで観覧車によって隠れていた向こう側の景色がよく見えるようになったということでしょう。

ここでも「ひとつずつ」が気になってきます。特定のひとつの観覧車が倒れて、あるいは近距離に隣接する数台の観覧車が倒れて、その奥がよく見えるようになったのであればわかりやすいのですが、一度に見ることができないような各所に点在する観覧車が順番に倒れていくという状況であれば、主体が今いる場所からは見えない景も存在するはずです。その見えない景の見透しがよくなるというのは、実際に目の前で見ているものというよりは、想像の世界で見ているものと捉えるほうが自然なのかもしれません。

ただ「見透し」は、物事のなりゆきや将来の予測といった意味でも使われるため、単純に見た目の景色のことだけをいっているのではないようにも思います。

さて、結句「ある日ぼくらは」ですが、言葉自体に難解なものはありません。しかし、初句から四句に続くかたちでこの結句が提示されると途端にこの一首が複雑になっていくような気がします。

「ある日」は、現状観覧車が倒れるという状況は起こってはいないけれど、将来のどこかで起こり得る日をいっているのかもしれません。

この「ぼくらは」の読み方が非常に難しいと感じます。「ぼくらは」でこの歌は完結しているのか、それとも「ぼくらは」のその後に何かが続くのか、続くとすれば一体何が続いていくのでしょうか。

観覧車が倒れて見透しがよくなって、”じゃあその状況がきたら、あなたはどうするの?”と問われているようにも感じます。

観覧車が倒れて見透しがよくなるというのは、現状にある何かしらの制約が解かれるような印象があります。今はその制約があって思うように振る舞うことができないのだけれど、その制約が解除されたならば、そのときあなたは何をするのですか、何をしたいのですかということを、主体は、引いては読み手は突きつけられているのではないでしょうか。

そのときに何も行うものがないとすれば、それは制約がある状況でも制約がない状況でもどちらでも大差ないということになるでしょう。観覧車でいえば、観覧車が立っていても倒れていても変わりないということです。

むしろ制約があるときの方が、その制約を言い訳にして、制約があるからできないのだということが可能です。もしも制約が解除されたのであれば、何かを行わない言い訳として、その制約の有無をもち出すことはできないでしょう。

そんなふうに考えると、例え見透しが悪いとしても、観覧車がそこにあるということも場合によっては大切なことなのかもしれないと思うのです。

観覧車というシンボリックな物体が倒れるという独特の発想の歌ですが、この状況を通してさまざまに考えさせられる歌で惹かれますし、何度も何度も触れてその度にあれこれと考えてみたい一首です。

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