あてもなく歩く二人に観覧車 一度も乗らなかった観覧車
岡本真帆『水上バス浅草行き』
岡本真帆の第一歌集『水上バス浅草行き』(2022年)に収められた一首です。
遊園地でしょうか、あるいは大きな観覧車があるハイウェイオアシスや、街中の人気スポットでしょうか。
「二人」は「あてもなく」歩いています。観覧車を目指して歩いているわけでもありません。特に明確な目的地や目指すものがあるわけではなく、あくまで「あてもなく」歩いているのです。
観覧車の大きさは小さいものから巨大なものまでさまざまありますが、小さいものでもある程度高さがあるので、やや離れたところからでも目に入ります。まして巨大な観覧車となれば、かなり離れたところからでも見ることができるでしょう。
掲出歌の観覧車の大きさは明示されていませんが、どのような大きさにしろ、二人が歩いている間、その視界にはしばらく観覧車があり続けたのでしょう。
二人が観覧車に乗ることを目指しているわけではないのですが、視界にある限り、常に観覧車の存在が気になっていたのではないでしょうか。あてもないからこそ、余計にその観覧車の存在が意識されていたようにも思います。
「一度も乗らなかった観覧車」というところは事実を述べているはもちろんですが、単に事実が提示されているだけではなく、その奥には主体の気持ちが表れているように感じます。
二人の関係性ははっきりとわかりませんが、もしかすると主体は観覧車に乗りたかったのかもしれません。あるいは、乗りたかったまでは思わなかったとしても、乗るきっかけがあれば乗ってもよかったくらいに思っていたのかもしれません。「一度も」という表現に、何回か乗るチャンスがあったのかもしれないけれど、結果的には乗らなかったということが強調されているように感じます。
観覧車のことをまったく気にしないのであれば、観覧車の存在自体に気を留めることもないでしょうから、この歌自体が生まれていないように思います。
この歌がつくられたということが、すでに観覧車の存在に何かしらの意識が働いているということを示しているのではないでしょうか。それは一般的なモノとしての観覧車ではなく、やはりこのときの二人の関係において、そしてこのときのシチュエーションにおいての観覧車として詠われているのです。
このとき二人が観覧車に乗ることがよかったのかどうかはわかりません。実際は乗らなかったわけです。けれども、乗らなかったという現実に対して、もしも乗っていたらその後の展開はどう変わったのか、それは主体にとっても読み手にとっても気になるところなのではないでしょうか。
音の面を少し見ておくと、「あてもなく」と「歩く」の頭はA音で共通しており、また「乗らなかった」の「かった」と「観覧車」がK音で統一され、韻においても意識された一首だと思います。
乗るか乗らないか、現実はどちらかしか選べないわけですが、この歌から選ばれた現実と選ばれなかった現実の両方を想像するとき、常に観覧車の存在感が強まってくる一首ではないでしょうか。