エレベーター一人で乗っている時もわたしは私を数え忘れる
鈴木晴香『心がめあて』
鈴木晴香の第二歌集『心がめあて』(2021年)に収められた一首です。
「乗っている時も」の「も」に注目したいと思いますが、この「も」から、エレベーターに一人ではなく複数で乗っているときが別にあるということが想像できます。
あるいは、この「も」はエレベーターに乗るときのパターンだけをいくつか示しているのではなく、エレベーター以外の場面、例えば、道路を横断したり、買い物に行ったり、食事をしたりといった、日常のさまざまな場面が他にあることを示す「も」なのかもしれません。
そのようなとき「わたしは私を数え忘れる」というのです。
エレベーターに誰か複数の人と一緒に乗り合わせたとき、「わたし」はいつもその人たちの数を数えているのでしょうか。そのときに「私」を数えるのを忘れているのです。
語義通り採れば、数え忘れるということなのですが、そもそも乗り合わせた人の数をなぜ数えるのかというところが明確に示されていません。
さらには、一人で乗っているときに、一人しかいないのに自分一人を数えるでしょうか。仮に数える習慣があるとして、自分を数え忘れてしまうということが何とも不思議な状態に感じられます。
したがって、この歌は、そこにいる人の数を数えるといった事象を単純に示しているだけではないのでしょう。読めば読むほど深みにはまっていきそうな感じがしますが、この歌からは、”私の存在”といったものが見え隠れしているように感じます。
エレベーターに「わたし」の存在は感じられますが、「私を数え忘れる」となった瞬間、先ほどまで存在感のあった「わたし」が、突如として消え失せる、そんな印象を抱きます。
「数え忘れる」という時点で、一旦「わたし」は消え去るのですが、「数え忘れる」という認識があること自体が「わたし」の存在を示しているようで、再び「わたし」はエレベーター内部に存在してくるのです。
「一人で乗っている時」が、より一層「わたし」の存在感の消失と出現を強調しているのではないでしょうか。
「私を数え」るという動機が不明であるため、謎を含んだ一首ですが、その謎めいたところが魅力的な一首であると感じます。

