妖精のてのひらに傷残るあさ木々はみどりの血を流しそむ
永井陽子『なよたけ拾遺』
永井陽子の第二歌集『なよたけ拾遺』(1978年)に収められた一首です。
通常、人間の血は赤色であり、「血」といわれれば赤色を想像します。この歌では「みどりの血」という言葉が登場しますが、緑色は赤色の補色です。
「血」といいながらも「みどり」であるところに、補色の相乗効果が活かされ、「みどりの血」はとても鮮やかなイメージをもたらします。そのような鮮やかさから、木々が流し始める「みどりの血」は痛々しくもあり、同時に優しさのようなものも感じます。
それは初句に出てくる「妖精」の影響かもしれません。妖精の輝かしいイメージが、血の生々しさのイメージを和らげていると感じます。
実はこの妖精、一連の冒頭に書かれた物語に登場します。
この歌は「邪鬼の見たもの」という一連にある一首ですが、連作12首の前に邪鬼にまつわる物語が書かれています。その物語の中に、妖精が現れる次のような箇所があります。
そんな邪鬼にも、忘れられない憧憬がひとつある。彼の生きてきたながい時間に比べれば、それは、ほんの一瞬のできごとにすぎなかったが。いつのことだったか、もう忘れた。どこで起こったことなのか、何ひとつ覚えてはいない。ただ、彼には、それを見たという記憶だけがある。踏みつけられ、目玉をむいた姿勢のままで、彼は、確かに見たことがあるのだ。生まれ、そして、季節がひとめぐりするのを待たずに死んでいった、妖精という生き物を。それは、これからも際限もなくつづく時間に棲むはずの彼にとって、すでにひとつの熱い想いとなりつつある。
対比として正反対に位置するような邪鬼と妖精。そして邪鬼の生きてきた時間の長さと、妖精が姿を見せた一瞬との対比も印象的です。この物語を読んだ上で掲出歌を見れば、木々が流すみどりの血はこの後も永遠に続いていくような、そんな印象を受けます。永遠というのは時に残酷で、終わりが訪れない苦しさが、邪鬼を通して感じられます。
補色とは?
色相環で正反対に位置する関係の色の組合せのことで、余色、対照色、反対色などとも呼ばれます。例えば、赤と緑、黄と紫、橙と青など。補色の効果として、互いの色を引き立て合う相乗効果があります。