チョコレートの歌 #18

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チョコレートの短歌

チョコレートはとけるとき悲鳴あげるから警察にだってとどけていい
我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』

我妻俊樹の第一歌集カメラは光ることをやめて触った(2023年)に収められた一首です。

正直、この歌をどのように読んでいいのか、なかなか難しいのではないかと感じます。

まず、チョコレートがとけるところまではわかりますが、「とけるとき悲鳴あげる」というところでつまずいてしまう人も多いのではないでしょうか。

それは、チョコレートが悲鳴をあげるところを聞いたことがないからです。

でも、多くの人が悲鳴をあげるのを聞いたことがないからといって、特定の誰かにとって悲鳴が聞こえないという証明にはならないでしょう。チョコレートがとけるときに、悲鳴が聞こえる人には聞こえるのです。いや、正確にいうと、悲鳴が聞こえているかどうかは言及されていません。聞こえようが聞こえまいが、チョコレートが悲鳴をあげるということが表現されているのです。聞こえない悲鳴というのも存在するのかもしれません。

さて、ここまででもなかなか想像しにくいのですが、下句に到っても、不思議な展開を見せてくれます。

「警察にだってとどけていい」というのです。悲鳴をあげたのが、誰か悪者に襲われた人であれば、警察へという展開は納得できます。ただしここで詠われているのは、チョコレートです。チョコレートが悲鳴をあげたとき、その悲鳴は誰かに危害を加えられたために発せられた悲鳴なのでしょうか。

チョコレートと、暴力や犯罪といったものがあまり結びつかないのですが、悲鳴と聞くとどうしてもよからぬことを想像し、またそこから警察の出番という展開は、人に限った話ではなく、それがチョコレートだったとしても、あり得るのかもしれません。

この「チョコレート」を、また「とける」を、何かの比喩と捉える見方もあるでしょうが、何かあるいは誰かの比喩と捉えてしまってはあまり面白くありません。

「チョコレート」はチョコレートのまま、「とける」も実際とけていく様子としてありのまま捉えたほうがいいのでしょう。比喩として捉えれば警察への展開につじつまがあるのかもしれませんし、比喩として捉えなければ警察への展開のわかりやすい解釈はもたらされないかもしれませんが、この歌の場合、つじつま合わせに歌を読んでも面白くないように思うのです。

さて、音数の面でいえば、七・八・五・八・六となっており、読み下すとリズムが少しギクシャクしているように感じますし、結句が六音となっているところがやや不安定なところですが、このリズム自体も、歌の内容に合わせて要請されたリズムのようにも感じます。

助詞が省かれていて、言葉足らずな感じもあえてそのように詠われていると思われます。「悲鳴あげる」の間の省略や、「とどけていい」と六音にせず、「とどけて」と「いい」の間に「も」などの言葉を挟めば七音になるのですが、そのようにしないところに、この歌の雰囲気が表れているように感じます。

また歌の要所で、T音を豊富に効果的に使っている点も、この歌が意味だけでなく、音の面で初句から結句まで引っ張ていく力強さをもっていることの現れなのではないでしょうか。

誰にでもわかるように解釈してくれといわれると困るのですが、意味の面でも音の面でも読むたびに気になって仕方がない一首です。

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