梔子とは違ふしろさの空白にカーソルの点滅を見てゐた
魚村晋太郎『花柄』
魚村晋太郎の第二歌集『花柄』(2007年)に収められた一首です。
「カーソル」とあることから、パソコンを操作している、あるいは画面を見ている場面でしょうか。
「梔子」は6~7月頃に白い花を咲かす植物ですが、梔子の白さとは「違ふしろさの空白」をパソコンに見ている様子を想像しました。
このカーソルは矢印型のカーソルかもしれませんし、Wordなどの文書作成ソフトで、次の文字の入力位置を示す縦棒のカーソルかもしれません。そのカーソルが点滅している様子を主体はじっと見つめているのです。文章を打とうとしていたのでしょうか、あるいはすでに書かれた文章について見ていたのでしょうか、いずれにしてもカーソルの点滅が目から離れなかったことは確かなようです。
通常「空白」は空白であり、特にその色に言及することは少ないでしょう。しかしこの歌では空白の「しろさ」について触れています。しかもその「しろさ」は「梔子とは違ふしろさ」と詠われているのです。梔子を引き合いに出して、画面の空白の「しろさ」を伝えようとしていますが、画面の空白の「しろさ」は具体的にはどのような白さかはわかりません。ひとついえることは「梔子とは違ふしろさ」であるということだけです。
梔子とは違う白さは無数にあると思いますが、「梔子とは違ふしろさ」とあえていわれることで、画面の空白の「しろさ」が何か限定されたような気になってしまうものです。
なぜ空白にカーソルが点滅する様子を見ていたのか、それははっきりとはわかりません。この歌のポイントは点滅を見ていたという行為そのものではなく、空白の「しろさ」が梔子の白い花の色とは違うというところに触れている点にあるのでしょう。
この「空白」は梔子の白とも違いますし、具体的にどんな白さかはわからないのですが、「梔子とは違ふしろさ」という表現によって、主体が見ている空白に何か意味が宿るような、そんな印象を受けます。
「空白」と直接的には連想されない「梔子」という一語が、このように使われることによって力をもっていると感じる一首ですが、全体的に謎めいたところもとても魅力的に感じられる歌だと思います。