ママチャリが駅に止められママも子も午前十時のここにはをらず
田村元『昼の月』
田村元の第二歌集『昼の月』(2021年)に収められた一首です。
午前十時、出勤か休みかはわかりませんが、駅に止めてある「ママチャリ」に目が留まったのでしょう。駅の駐輪場かもしれませんし、駐輪場ではないスペースに止めてあったのかもしれません。
台数も明確にされていないため、一台とも採れますし、多数のママチャリが止めてあったとも採れます。ここでは「ママも子も」という表現が誰かを特定している印象をあまり受けないので、特定の一組と見るよりも、複数の「ママ」と「子」の組み合わせというふうに捉えたいと思います。ですから、駅にママチャリは複数台並んで止められていた様子を想像します。
さて、自転車が止めてある場合、その持ち主である乗り手はそこにいないケースがほとんどでしょう。特に駅の傍であれば、電車に乗ったり、駅付近での食事や買い物、あるいは仕事などがあるために、駅に自転車を止めておくのです。
駅の駐輪場などに自転車を止めておくのは、その後の行動をするのに自転車は不要であるからです。ですから、自転車を離れて行動したい人がいつまでも自転車の傍にいるはずもなく、むしろ自転車の傍にいないことの方が自然なことでしょう。
しかし掲出歌では「ママも子も午前十時のここにはをらず」とあり、ママと子の不在が殊更クロースアップされるように詠われています。このように”いないこと”が強調されると、”いないこと”が当たり前だと思われる状況でも、”いないこと”がどうも不自然なことのように感じられてしまうのです。それがこの歌を読んだときに感じる違和のようなものに通じているのではないでしょうか。
今「ここにはをらず」を強調して読みましたが、それ以上に「午前十時」という点をこの歌の強調点として見る読み方もあると思います。
朝早くでもなく、昼の時間でもなく、午前十時という時間帯に主体が駅に居合わせたということそのものが何かを物語っているのかもしれません。それは具体的に何かはわかりませんが、ママチャリの存在、ママと子の不在、午前十時の駅、その駅にいる自分、ママチャリを見ている自分、それらの組み合わせに対して主体自身が何かを感じているというふうにも思われます。
平易な言葉で詠われている歌ですが、考えれば考えるほど深みにはまっていきそうな一首だと感じます。