tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第6回です。今回は「「死ぬときに後悔しない」を合言葉にする」と題して、死ぬときに後悔しない生き方について見ていきたいと思います。
死ぬ瞬間に人が思い返すことは一体何でしょうか。納得のいく死の瞬間とはどういったものなのでしょうか。
死が身近に迫っておらず遠い存在としてある場合、死の瞬間に振り返るであろうことを想像するのは難しいことかもしれません。
例えば、ブロニー・ウェア著『死ぬ瞬間の5つの後悔』によれば、多くの人が死ぬ瞬間に後悔することとして次の5つが挙げられています。
- 自分に正直な人生を生きればよかった
- 働きすぎなければよかった
- 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
- 友人と連絡を取り続ければよかった
- 幸せをあきらめなければよかった
死ぬときに、これらの後悔を感じるケースが多いというのは、何となく納得できる気がします。特に「自分に正直な人生を生きればよかった」と感じる人が多いようです。
自分を振り返ってみて、今の自分は果たして、自分に正直に生きているだろうかと問いかけてみてはどうでしょうか。
死ぬときに後悔しないというのは、自分に正直に生きてきたかと同じ意味合いなのでしょう。ここに挙げた5つの後悔は大枠であり、実際死ぬ瞬間に思い出すのは、人それぞれ異なります。死ぬ瞬間に後悔しない生き方とは、自分に正直に生きて、自分が納得のいく経験をいかにしてきたかということに尽きるのかもしれません。
さて、死ぬ瞬間に思い出すことは、次の歌のように非常に個人的で些細なことであることが充分考えられるでしょう。
缶で飲むアクエリアスのおいしさを懐かしがって死んじゃうんかね 岡野大嗣『音楽』
「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」を懐かしがるところを想像している歌ですが、「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」という具体によって、日常における何気ない出来事でありながらも、妙にリアリティをもって読者に迫ってきます。
「缶」で飲むおいしさ、「缶」のひんやりとした感触、「アクエリアス」という商品名。これらによって、個人的な出来事としての輪郭が与えられています。
死ぬときに懐かしがるのは自分が経験した出来事であり、記憶として残っている「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」なのです。仮に同じような経験を他者がしていたとしても、それは主体の経験と全く同じものというわけではありません。その唯一性が、この経験を価値あるものとして特徴づけているのだと思います。
「缶で飲むアクエリアスのおいしさ」は、長い人生の場面においては些細なことかもしれません。しかしこういう些細な出来事こそ、死ぬ瞬間に思い出したり懐かしがったりするものなのかもしれないと思います。社会的な出来事とはかけ離れた個人的な出来事ですが、生きている間にこういう個人的な出来事をどれだけ経験することができるかが、死ぬときに後悔しない生き方につながると感じさせてくれる一首ですね。
「あの旅は楽しかったって、死ぬときにお母さん言いそう」言ふかもしれぬ 小島ゆかり『さくら』
死ぬときに、楽しかったと振り返ることができる旅があるというのはとても幸せなことではないでしょうか。往々にして思い出すのは、モノではなく経験でしょう。経験はいつまで経っても振り返ることができますし、その思いは、時間が経過すればするほど貴重なものに思えています。死ぬときに、もっと旅行にいっておけばよかったと後悔するのではなく、「あの旅は楽しかった」といえるような生き方をしたいですね。
次は童話に関して詠まれた一首ですが、死ぬ瞬間について、幸せと死について考えさせられる歌です。
「幸せに暮らしましたが死にました。けれど死ぬまで幸せでした」 木下侑介『君が走っていったんだろう』
「最後の童話」という題が付された一連の歌集掉尾の歌です。全体が鉤括弧で括られており、童話の最後の一文を表しているのでしょう。
童話の最後の一文が「幸せに暮らしました」であれば、それはハッピーエンドとして受け取れますが、「幸せに暮らしましたが死にました」では文の最後が「死にました」で終わるため、純粋にハッピーエンドとしては受け取れなくなってしまいます。
しかし、この歌はその続きの一文を用意しています。「けれど死ぬまで幸せでした」がそれです。これによって、再び読後感として「幸せ」に焦点が当たるようになっています。
つまり構造としては「幸せ」→「死」→「死」→「幸せ」の順番で述べられています。最後を「幸せ」で終わらせるのであれば、最初から「幸せに暮らしました」という表現だけでもいいように思います。それをわざわざ一旦「死」を介して再び「幸せ」に戻るという、ある意味面倒くさいことをやっているのです。その意図は何なのでしょうか。それは「死」を明確に示すということではないでしょうか。
人はいずれ死にます。どんなに長寿であったとしても、生の先には死があるのです。
もし「幸せに暮らしました」だけで童話が終わっていれば、読み手はそこに「死」を意識することはまずないでしょう。ですから、この歌は「死」という言葉を配して「死」を明確に示そうとしているように感じてしまうのです。
しかし「死にました」で終わると悲しい結末の印象が残ります。そこで「けれど死ぬまで幸せでした」という文が付されて、結末の悲しさを緩和しているのだと思います。
童話というのは、この世とは別世界のものとして捉えられることもありますが、童話の世界であっても生死は存在するということを、この一首は物語っているように感じます。
「死」はやがて訪れる、そんな当たり前のことをこの一首は教えてくれているのです。しかし「死」に至るまでどのように過ごすかはその人次第でしょう。幸せに過ごそうが、不幸せに過ごそうが、いずれ死はやってくるのですが、「幸せ」とは「死」に至るまでの過程に存在するものだということを改めて考えされられるのではないでしょうか。
「死ぬまで幸せ」であったこと、それがこの童話の唯一の救いのように感じますし、死ぬ瞬間に後悔しないということは、死に至るまでの過程をいかに見つめて生きるのかであると思わされます。
今ここでやめたなら子をいつまでも恨んでしまふかもしれぬゆゑ 山木礼子『太陽の横』
「今ここでやめたなら」は、自分がやりたい何かを指しているのでしょうか。仕事かもしれませんし、短歌かもしれません。「子」がいたためにやりたいことを諦めたとは絶対いいたくないのだと思います。後悔しない選択とは、本当に自分で納得して判断することなのだと思います。将来、子を恨んでしまうかもしれないような判断は避けたいものです。
一度した判断はそうそう変更することはできません。時間が経過してから、あの判断が間違っていたからやり直しというわけにはいかないのです。今を見つめて、死ぬときに後悔しないのはどういう判断なのかをじっくりと考える必要があるかもしれません。
後悔に関しては、次のことがよくいわれますが、印象深く響いてきます。
やらなかった後悔より、やった後悔。やらなかった後悔は日増しに大きくなるが、やった後悔は日増しに小さくなる。
いいまわしは異なるかもしれませんが、いっている内容は、林真理子氏のモットーになっているようです。
後悔には「やらなかった後悔」と「やった後悔」の二つがあります。「やった後悔」はその瞬間には激しく後悔しますが、日が経つほどその後悔は薄れていきます。一方「やらなかった後悔」はいつまでも心の中に残り続けます。そしてもうその行動ができない時期となると、「あのときなぜ行動しなかったのだろう?」と後悔が増大していってしまうのです。
現状に迷ったとき「死ぬときに後悔しない」のはどちらなのかを基準にして判断すると、仮にうまくいかなかったとしても、長い目で見ればいい選択だったといえることが多いのではないでしょうか。
「死ぬときに後悔しない」を合言葉にして、今日何をするのかを考えたいものです。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
[もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?]
(スティーブ・ジョブズ)
後悔しないということを突きつめると、スティーブ・ジョブズの言葉に集約されるのでしょう。
冒頭で触れた、死ぬときの後悔のひとつである「自分に正直な人生を生きればよかった」は、今やろうとしていることは本当にやりたいことなのかという点に通じるのではないかと感じます。
死ぬときに後悔しない秘訣は、最後の瞬間に賭けることではなく、今日の1mmを丁寧に生きていくことなのではないでしょうか。

