6月の短歌

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6月の短歌

「6月」に関わる短歌をピックアップしてみました。6月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。

目次

6月の短歌

善と悪とのどちらでもないものばかり揺れてわたしの庭の六月

作者荻原裕幸
歌集『リリカル・アンドロイド』
tankalife

六月の庭に揺れているものは何でしょう。まず花や緑を思い浮かべますが、六月といえば紫陽花などがその候補に入るかもしれません。紫陽花は「善と悪とのどちらでもないもの」として捉えられるのでしょうか。植物に、人間のような善悪の区別を適用すること自体が稀であり、人間の側から見ると、例えば紫陽花は善悪どちらでもないものとなるでしょう。しかし、この歌で揺れているのは何も植物に限った話ではないとも思うのです。庭に揺れているもの、それは主体が生み出した数々の感情、思い、考え、記憶などかもしれません。「わたしの庭」という表現が、主体のもちものとしての庭に留まらず、主体が想像することで生み出された感情や思考の庭のような印象をもっているからです。目の前にあるのは現実の庭であると同時に、主体の思いがつくりあげた庭なのではないでしょうか。この日の庭に揺れているのは、善でも悪でもないフラットな状態のものであり、それは主体が判断を求めず、穏やかな心であるといえるのかもしれません。ついつい善悪の判断を下してしまいたくなる日々ですが、そのどちらでもない状態を感じられる「庭」に憧れを抱く一首です。

一年はまだ六月の一日でパスタのあとにパイの実を食う

作者永井祐
歌集『日本の中でたのしく暮らす』
tankalife

一月始まりの十二月終わりで一年を見た場合、六月一日は一年の半分に達していない時期です。「まだ」にそれがよく表れているでしょう。さて、そのように捉えた六月にパスタを食べて、その後にパイの実を食べたことが詠われています。パスタもパイの実も、食べ物としては見た目もジャンルも全然違いますが、強いていえば、半濁音の「パ」から始まる言葉であることが共通しているでしょうか。無理に共通項を探す必要はありませんが、歌の流れとして、パスタときてパイの実がくると「パ」の頭韻が心地よく伝わってきます。日常の一コマといえばそうなのですが、これが十二月であれば同じようにパスタとパイの実を食べるのかどうかを考えると、やはり日常とはいえ、六月の一日の代替の効かない出来事として迫ってくる一首ではないでしょうか。

六月の雨をあなたが駆け抜けてバスに乗るのを校舎から見た

作者工藤吉生
歌集『世界で一番すばらしい俺』
tankalife

六月の雨「に」ではなく「を」です。つまり、雨に向かって駆け抜けていったのではなく、雨の中をまさに駆け抜けている「あなた」の姿が浮かび上がってきます。雨とあなたとの距離感はほとんど感じられず、雨とあなたは一体化しているような印象があります。一方、主体は校舎からあなたを見ており、そこには一定の距離感があるでしょう。雨とあなたとの間よりも、主体とあなたとの間には近づきたくても近づけない隔たりがあることが窺えるのではないでしょうか。主体は本当は見ているのではなく、あなたと一緒に六月の雨を駆け抜けたかったのかもしれません。あなたがバスに乗った後、きっと六月の雨の音だけが残されていたのではないでしょうか。

六月の現実として降る雨のしずけさ 決意するということ

作者田中ましろ
歌集『かたすみさがし』
tankalife

何かを「決意する」とき、心の底から湧き上がるような熱量をもって、あるいは熱い思いが言動に全面に出てなされるケースがあると思います。しかし、この歌では見た目にわかりやすい熱さは感じられません。「六月の現実として」という把握の冷静な視線、そして「降る雨のしずけさ」というまさに静寂を湛えた時間が感じられるからです。熱さが感じられないからといって、決意の程度が弱いかというと、決してそうではありません。むしろ、静かであればあるほど、逆に怖ろしいほど揺るがない意志を奥底にもっているように感じられます。

六月のやさしい雨よ恋人のいる人が持つ雨傘の赤

作者伊波真人
歌集『ナイトフライト』
tankalife

六月に降る雨にやさしさを感じています。「恋人がいる人」は主体を指すのでしょうか、それとも別の誰かのことでしょうか。あるいは面識のない人も含めて、地球上にいるすべての「恋人がいる人」を指しているのでしょうか。それらの人は赤い雨傘を差しているのです。傘に触れるのは「やさしい雨」であり、傘をもっている人までやさしさそのもののように思えてきます。赤が象徴するものは何でしょうか。愛や情熱でしょうか。赤から何を読みとるかは読み手に委ねられている部分はありますが、赤い雨傘ではなく「雨傘の赤」という収め方によって、赤色が読み手に印象に残るよう工夫された一首です。

鬱憂は濃さであるのか六月のわたくし濃くて椎ともなれり

作者渡辺松男
歌集る』
tankalife

「鬱憂」は憂鬱と同じ意味合いの言葉ですが、憂鬱に比べあまり見聞きしない分、初句でいきなり言葉そのものの魅力を感じます。その鬱憂が濃い淡いの基準で捉えられています。「六月のわたくし濃くて」とあり、「六月のわたくし」は濃いと感じているのでしょうが、ここで濃いというのは、鬱憂が濃い、つまりかなり気がふさがり沈んだ気持ちであることを指しているのでしょう。その濃さがある一定範囲を突き抜けると、どうなるのか。その結果が「椎」にもなったということなのです。濃すぎるがゆえに「椎」になるという発想というか体感というかが飛び抜けています。六月のじめじめとした気候が鬱憂を呼び、鬱憂が主体を椎にしてしまったのでしょうか。見た目は椎ではなくても、鬱憂の果てに感じる気持ちが椎の気持ちそのものと感じたとき、気持ちの面では椎であり、すなわちそれは主体は椎になったといえるのだと思います。

自己紹介うまくできない六月の排水口に毛は絡まって

作者上坂あゆ美
歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』
tankalife

自己紹介が好きで得意な人もいれば、苦手でできればやりたくないと思っている人もいます。しかし、職場や学校など新しい環境に入るとき、必ずといっていいほど自己紹介を求められます。得意不得意に関わらず、自己紹介をしなければならない度に、うまくできない場合は自分が嫌になることもあるでしょう。自己紹介と「六月の排水口」に毛が絡まることは直接的には関係ないように見えますが、毛の絡まり具合が、自己紹介がうまくできない感じをよく表していると思います。ただし、排水口をきれいにしたからといって、途端に自己紹介がうまくなるわけではないでしょう。自己紹介と排水口の毛の絡まりは関係性がないとしても、自己紹介がうまくいかない理由の一端を、排水口の毛の絡まりにしておくことで、若干の心の安らぎが得られるのであれば、それはそれでいいのかもしれません。

六月の夢にも黄砂がふいていてきみの寝息がたまにつまずく

作者榊原紘
歌集『悪友』
tankalife

春に多い黄砂ですが、どうやら六月の「きみ」の夢の中にも黄砂が吹いているようです。主体は「きみ」の寝息を傍で聞いているのですが、スムーズに一定のリズムを保っていた寝息が、時々引っかかる瞬間があるのでしょう。寝息が「つまずく」という表現が端的でありながら、状況を的確に表していてとても惹かれます。一般的に黄砂は呼吸器や循環器に影響を及ぼす場合も考えられるため、この歌の黄砂から寝息への展開は自然な流れに感じられます。寝息がつまずいた瞬間は、おそらく夢の中の黄砂がひどくなった瞬間と重なるのでしょう。実際、主体が「きみ」の夢の中を覗き見することはできないので、「きみ」の夢に黄砂が吹いているかどうかはわかりません。しかし、「きみ」の寝息のつまずき方から、主体が六月の夢の黄砂を思うところに魅力を感じます。

喩としてのあなたはいつも雨なので距離感が少しくるう六月

作者笹川諒
歌集『水の聖歌隊』
tankalife

「喩」とはたとえのこと。「あなた」を「あなた」として捉えるのではなく、「喩」として見た場合、「あなた」は「いつも雨」なのでしょう。「あなた」を「あなた」以外の何かに喩えるとき、無数の選択肢がありますが、その中から「あなた」は「雨」として選ばれたのです。しかも、「いつも雨」であり、あなたに対する喩が毎回変わることはなさそうです。「いつも雨」の「あなた」であるから、雨の多い「六月」は「距離感が少しくるう」と詠われています。六月の雨はずっと降っている場合もあれば、突如降り出す場合もあるでしょう。また降っているかと思えば急に止んだり、降る予報だったのに降らないといったケースもあるでしょう。主体は、そんな「雨」すなわち「あなた」との距離感をつかみにくく感じているのではないでしょうか。表現として魅力的なのは「あなたはいつも雨のようだ」ではなく、「喩としてのあなたはいつも雨」であり、「喩」を起点として「あなた」の存在を計ろうとするところに魅力の根幹があると感じます。

六月の青葉若葉の照る道にときをり春の落葉ふるおと

作者時本和子
歌集『運河のひかり』
tankalife

「春落葉」という俳句の季語があり、晩春に古葉を落とす椎や樫、楠などの常緑樹の落葉のことを意味します。この歌の「春の落葉」とはそのような落葉を指しているのでしょう。六月になれば、「青葉若葉」の存在が目立ちますが、その中に時々春の落葉が見られたのだと思います。「ふるおと」ですから、実際葉が落ちている途中の音でしょうか。枝から葉が剝がれ落ちた瞬間に、春の葉から春の落葉へと変化するのでしょう。主体は非常に注意深く葉を感じながら、この道を歩いていたのだと思います。青葉若葉が照る視覚的な上句から、春の落葉の降る聴覚的な下句への展開がスムーズに感じられる一首です。

六月のハイ・ウエイ ひとは座したまま運命を移動するとおもへり

作者魚村晋太郎
歌集『銀耳』
tankalife

高速道路を車で走っている場面でしょうか。六月は雨の日が多いので、ひょっとするとこの日も雨が降っているかもしれません。何の先入観もなしに「移動する」という言葉を聞いたとき、最初にどんな姿や状況を思い浮かべるでしょうか。立っている姿でしょうか、座っている姿でしょうか。歩いているのでしょうか、それとも車を運転しているのでしょうか、電車やバスに乗っている様子でしょうか。さまざまな「移動する」があるわけですが、ここでは「ひとは座したまま」移動する姿が想像されています。何を移動するのかといえば「運命を移動する」のです。この表現が魅力的ですが、運命を自ら切り開くと考えるケースでは「座したまま」は少しマッチしないかもしれません。しかし、運命というのは自分の力を超えたもので、ある程度受け入れざるを得ないものと考える場合、「座したまま」はしっくりくるように思います。車であれば、運転席に座っているか助手席に座っているかでも大きく異なるでしょう。運転席なら座したままでも自ら進む方向や速度を決定することはできますが、助手席なら自ら決定することはできません。自ら運命という道を進んでいくのか、運命の方が自らに流れてきて結果的に「移動」という状況になるのか。考えれば考えるほど、「座したまま運命を移動する」には多くの含みが感じられますが、その幅の広さが一層歌を魅力的にしている一首だと感じます。

六月号「きょうの料理」はそり返る散らかっている円卓の

作者染野太朗
歌集『あの日の海』
tankalife

NHKで放送されている料理番組「きょうの料理」のテキストが円卓の上に置かれています。六月号なので、初夏の食材を中心とした料理のレシピがまとめられているのでしょう。その六月号は単に置かれているだけではなく、そり返っています。しかも、円卓の上はきれいに片づけられておらず、散らかっているのです。そり返っているのは、特定のページをじっくりと見ていたからでしょうか。テキストのレシピを見ながら料理をつくっていたのかもしれません。そり返るテキストを冷静に見つめる目をこの歌から感じます。したがって、自分がこのテキストを見て料理していたというよりも、自分以外の誰かがテキストのレシピを見て料理していた状況を想像する方がしっくりくるように思います。閉じて置かれたテキストと、そり返って置かれたテキストでは受け取り方も変わってくるでしょう。そり返りに何かストーリーを思い浮かべてしまいそうな一首ではないでしょうか。

六月の月をホテルの窓にみてはるかなりきみのいる世界の樹

作者正岡豊
歌集『四月の魚』
tankalife

「きみ」と主体は距離的に離れた場所にいるのでしょう。いや、「きみのいる世界」ですから、そもそも同じ世界にいるのかどうかも定かではありません。自分がいる世界と「きみ」がいる世界は全く違う世界なのかもしれません。「きみ」のいる世界の樹への想像は及ぶとしても、主体がその樹に触れることはきっと難しいのでしょう。ここで確かそうに思えるのは「六月の月」と「ホテルの窓」です。主体の確かな居場所に対して、「きみ」の世界はおぼろげで捉え難く、窓から月を見ていると、「きみのいる世界の樹」が一層「はるか」に感じられるのです。「世界の樹」という表現からは、神話などによく見られる、世界を成り立たせる根源的な存在としての世界樹を想像させ、単に距離の隔たりに留まらず、時間や生命といったものの遠さも感じられる一首ではないでしょうか。

さまざまのことありしかど六月の月の光は膝に来ている

作者岡部桂一郎
歌集『一点鐘』
tankalife

これまでの人生で起きた「さまざまのこと」を振り返っているのでしょうか。それは短時間では語りつくせない、プラスのこともマイナスのことも色々とあったのでしょう。思いを馳せた後、ふと今の自分を見つめてみると、六月の月の光が膝まで届いていることに気がつきました。月の光は否定も肯定もせず、ただそこに訪れるだけでしょう。その光を見てどう感じるかは人間側の判断によるのです。このときの月の光はとてもやさしく感じられるものだったのではないでしょうか。満ち欠けを繰り返しながら地上を照らし続ける月の光は、すべてを包み込んでくれるような存在として主体の膝を照らしている、そんな一首ではないかと思います。

三階の一番隅の教室で英語の虹の詩を読む六月

作者小島なお
歌集『乱反射』
tankalife

学校の英語の授業の場面でしょう。六月に英語の虹の詩を読んでいますが、声を出して読み上げているのか、声を出さずに詩を読み解いているのか、あるいはその両方でしょうか。教室が三階の一番隅であることから、その教室の窓からはこれまでに何度も虹が見えていたのかもしれません。虹が見える教室で、虹の詩を読むという状況に鮮やかさが漂います。注目したいのは、三つの数字が詠み込まれている点です。「三階」「一番隅」「六月」とあります。数字を多用しすぎるとごちゃごちゃとした歌になりがちですが、この歌は数字が三つも使われていながら、そのような印象はありません。一と三は六の約数であり、無関係な数字同士ではないところもうるさく感じない要因なのかもしれません。数字がアクセントと限定を示し、効果的に活かされた一首だと思います。

六月の晴れ間の水に反射して通りの人の増えはじめたり

作者花山周子
歌集『屋上の人屋上の鳥』
tankalife

雨の多い六月ですが、「六月の晴れ間の水」は、雨が上がった後にできた水たまりをイメージしました。道路は完璧な平坦ではありませんから、道路の窪みのあちこちに水たまりができるでしょう。そのような水たまりに晴れ間の光が当たって反射しています。通勤や通学の時間帯でしょうか、あるいは雨が上がって外を歩く人が多くなったからでしょうか、通りの人がだんたんと増えていったのです。通りの人たちは、水に反射してまるできらきらとした水の光に包まれたように感じられます。そこには、人が増えたことによる、ごみごみとした鬱陶しさはありません。人が増えることは光が増えることそのものであるように感じられ、通りの空間は明るさを増していくばかりに思われる一首です。

六月の止まらない大山は優しい顔したダンプカーみたいだ

作者池松舞
歌集『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』
tankalife

阪神タイガースの大山悠輔選手を詠った歌です。この歌は2022年6月7日の頁に掲載されていますが、6月7日のセ・パ交流戦で福岡ソフトバンクホークス相手に、大山選手はタイムリーを放ち勝利に貢献しました。大活躍の6月の様子を「ダンプカー」に喩えていますが、この「ダンプカー」は褒め言葉でしょう。面白いのは「優しい顔した」がついていることです。ダンプカーのイメージとして、その力強さから「優しい」とは相容れない印象がありますが、大山選手の顔だけはダンプカーのイメージではなく、まさに「優しい顔」なのです。ダンプカーのような働きと、優しい顔とのギャップに益々魅了され、大山選手に対する作者の心寄せを感じる一首です。

六月の北半球の体温がじわりと上がる カルピス飲もう

作者笹本碧
歌集『ここはたしかに 完全版』
tankalife

春から夏にかけて徐々に気温が上がっていく様子を「六月の北半球の体温がじわりと上がる」と詠っています。気温といういい方は人を主としたものですが、北半球を主とした場合、それは「体温」なのでしょう。北半球という大きな捉え方も魅力的であり、「じわり」という表現が効果的だと感じます。「カルピス飲もう」には、日常の些細なことながらもとても幸せな感じを受けます。豪華な料理を食べるわけでもなく、旅行にいくわけでもありません。しかし、気温がじわりと上がる六月にカルピスを飲もうと思い立つことは、それにもまして素敵なことなのかもしれません。飲んだという結果よりも「飲もう」と思うこと、そこに惹かれる一首です。

ヴェランダは散らかっていて六月の台風がもうじきやってくる

作者土岐友浩
歌集『Bootleg』
tankalife

日本で台風といえば九月、十月のイメージが強いですが、もちろん一年を通して台風は発生しており、六月の台風が詠われています。威力のある台風がやってくるときには、飛ばされないように事前にヴェランダのものを片づけておく必要があるでしょう。植木鉢や物干し竿などを置いている場合は部屋の中に入れておかないと、自分の被害だけでなく、飛ばされたものが近所の家や人に迷惑をかけることもあります。主体はヴェランダが散らかっていることを認識していますし、片づけないといけないなあと感じているのだと思います。でも実際は、まだヴェランダは散らかったままなのです。台風がやってくることはわかっているし、飛ばされる可能性があることもわかっています。片づけた方がいいし、片づけないと後で困ることになることも想像できています。けれども、どうにも片づけようという行動に移る気配がこの歌からは感じられないのです。本当のところは、散らかったままの状態で、何事もなく、台風が通り過ぎるのが一番いいと思っているのではないでしょうか。「もうじき」とわかっていながら、散らかっている状態であることに、ヴェランダの片づけに対する主体の葛藤が見え隠れする一首ではないでしょうか。

六月の受話器より雨はしぶしぶと自らの鬱伝えてきたり

作者松平盟子
歌集『うさはらし』
tankalife

携帯電話やスマホが普及する前の、固定電話の「受話器」を指しているのだと思います。受話器から聞こえてくるのは、誰かからの話し声ではなさそうです。聞こえてくるのは「自らの鬱」であり、それを伝えてくるのは「雨」なのです。「自らの鬱」は一体誰の鬱なのでしょうか。主体自身の鬱でしょうか、それとも雨の鬱でしょうか。状況を分かりやすく捉えると、受話器の向こう側の場所では雨が降っていて、受話器越しに雨音が聞こえてくるといったことかもしれません。しかし、「雨」「しぶしぶと」「自らの鬱」と並んでくると、まるで雨自身が鬱を伴っているようでもあり、それを聞いている主体が鬱を感じているようでもあります。「しぶしぶ」というオノマトペも効果的で、陰鬱に降る雨の様子も想像できますし、「自らの鬱」にもつながる表現だと思います。受話器と雨の存在感が光る一首です。

画用紙にうすいみどりと灰色の絵具のしずくがにじむ六月

作者岸原さや
歌集『声、あるいは音のような』
tankalife

「絵具のしずく」をどのように捉えるかが難しいところですが、画用紙に六月の雨の粒が当たって、画用紙に描かれていた絵が少し滲んだ場面でしょうか。画用紙に滲んだのは「うすいみどり」と「灰色」で、やや暗さを帯びた印象を受けます。赤や黄といった暖色でもなく、青系の寒色でもなく、どちらかといえば濃さを伴わない「うすいみどり」と「灰色」は六月の雨の降る雰囲気にマッチしているように感じます。画用紙に絵具がだんだんと滲んでいく様は動的であり、「うすいみどり」と「灰色」が織りなす世界が、絵具自らの意思で展開していくようにも思われます。この歌には人間の存在をあまり感じませんが、その分、色が主役となって歌の雰囲気をつくりあげている、そんな一首ではないでしょうか。

うすみどりふちにさしゐてなほ白き六月の百合かひなに重く

作者水沢遙子
歌集『空中庭園』
tankalife

「かひな」は腕のこと。百合といえば白をイメージしますが、ここでは百合の色について非常に丁寧に詠われています。百合は真っ白ではなく、「うすみどり」が縁にうっすらとさしている様子が示され、それでもなお百合は白さを保っていることが詠われています。色が丁寧に捉えられることで、単に白い百合というよりも、百合の美しさが確かに伝わってきます。そして歌は色から重量へ展開し、美しい百合が重く感じられることが詠われており、重さを伴った白さに、百合のもつ重量感や存在感を感じることができる一首となっているのではないでしょうか。

換へるとき頭の中で書いてゐて〈襁褓〉が書ける六月のわれ

作者大松達知
歌集『ゆりかごのうた』
tankalife

「襁褓」の読み方は「むつき」で、つまりおむつのことです。子育ての場面を詠った歌であり、まだ小さい我が子のおむつを交換しようとしているところです。「襁褓」という漢字を書ける人はそれほど多くいないと思いますが、「われ」もまた子が生まれる前や生まれた直後は「襁褓」を書けなかったのかもしれません。しかし、おむつ交換を繰り返すうちに「襁褓」が書けるようになったのでしょう。それは単に漢字で書けるというだけの話ではなく、だんだんとおむつ交換に慣れてきたことそのものを表しているのではないでしょうか。おむつ交換をしながら、頭の中で漢字を書いている余裕すらあるのですから、六月時点でおむつ交換は手慣れたものになっているのだと思います。漢字を書くこともおむつを交換することも、ともに成長していることが窺える一首です。

いま産めば父を産むかも ひそやかに検査薬浸す六月の朝

作者岡崎裕美子
歌集『わたくしが樹木であれば』
tankalife

歌集においてこの歌が収められている一連「父を運ぶ」には父の死が詠われています。父の死後、六月のある朝に妊娠検査薬で妊娠の有無を確認したのでしょう。「ひそやかに」とある通り、非常に静かな時間を感じます。主体は父の死、そして新たな命の誕生の両方を何度も見つめ続けているのではないでしょうか。死と生が切っても切れない関係として膨れ上がってきたとき、「いま産めば父を産むかも」という思いに至ったのではないかと思います。一連の最後には〈吾はただ命をはこぶ水であれ死も産まれるも見届けたきに〉という一首がありますが、命というのは死んで終わりではないと感じているのでしょうし、命の連環について思いを巡らせているのではないでしょうか。父の死後の日々においては、まだ父のことを考える時間が占める割合が多いのでしょう。「いま産めば」は、命の連環を思う際、父の存在がいかに大きいかを物語っているように感じます。死と生のつながり、そして深さが伝わってくる一首です。

六月のあなたの痛みを牽きてゆく海馬、その荷へ花を放らむ

作者川野芽生
歌集『Lilith』
tankalife

「海馬」はタツノオトシゴを指す場合もありますが、ここでは記憶に関与する脳の部位のことをいっているのだと思います。しかし「牽きてゆく」や「荷」という語があることで、「海馬」は単に脳の一部位に留まらず、まるで命をもった「馬」のような躍動感ある存在として提示されているように感じます。「六月のあなたの痛みを牽きてゆく」のは主体自身の海馬でしょうか。主体は「あなたの痛み」を記憶から消してしまいたいのかもしれません。しかし、自分ではその記憶を完全に制御することができず、海馬に痛みの記憶が残り続けている状態なのではないでしょうか。せめてできることといえば、その記憶に対して花を放ること。花を放るとは中々解釈が難しいのですが、痛みの記憶に対して優しさをもって接するようなイメージを想像しました。その痛みを拒絶するのではなく受け入れることによって初めて「あなたの痛み」は海馬において終わりを迎えるのかもしれません。

めずらしくない鬱に入るめずらしくない六月の雨の中にて

作者松木秀
歌集『RERA』
tankalife

晴れの日と雨の日、晴れの季節と雨の季節。晴れと雨を比べたとき、鬱を感じるときはどちらでしょうか。天候が人の気分に及ぼす影響は決して小さくないと思います。主体が鬱を感じている場面ですが、場合によってはうつ症状やうつ病の「鬱」を指しているのかもしれません。「めずらしくない鬱」ということは、今回が初めてのことではなく、過去何度も「鬱に入る」経験をしたことがあるのでしょう。「六月の雨」も主体にとっては「めずらしくない」ものであり、この雨は「鬱」と関連づけられた雨という点で珍しくないのだと思います。鬱も雨もいたって普通のことになってしまっていますが、「めずらしくない」が繰り返されることにより、逆に「鬱」も「六月の雨」も”普通”を超えた輪郭を帯びているように感じます。淡々と詠われている様子がありますが、読んでいくと「鬱」も「六月の雨」も小さな突起物のように読み手に伝わってくる一首だと思います。

街角でわれの心を振り向かすデジャヴュ デジャヴュと六月の雨

作者杉﨑恒夫
歌集『パン屋のパンセ』
tankalife

「デジャヴュ」とは、初めて体験する出来事なのに以前にも経験したことがあるように感じる現象です。既視感ともいわれます。六月の雨降る街角で、主体はデジャヴュを感じたのではないでしょうか。それは雨の景色だったかもしれませんし、雨の音だったかもしれません。心を振り向かせる何かが、六月の雨の時間に存在していたことは確かなようです。この歌のもう一つのポイントはオノマトペとしての「デジャヴュ」でしょう。雨が降る「じゃぶじゃぶ」という音と「デジャヴュ デジャヴュ」がどこかしら重なります。意味としてのデジャヴュはもちろんですが、音としてのデジャヴュが雨が降る音に呼応しているのではないでしょうか。六月の雨を契機として、五感をフルに刺激してくる様が伝わってきて印象に残る一首です。

六月が歩いてきたりむかうからひかりのなかに白いブラウス

作者小島熱子
歌集『ぽんの不思議の』(『小島熱子歌集』現代短歌文庫)
tankalife

ある季節がやってくる、あるいは何月がやってくるといういい方はよく聞きますが、六月が歩いてきたという表現を日常見聞きすることはほぼないと思います。歩くと表現からは二足歩行をイメージしますが、特定の月に対して二足歩行を関連づけることはまずないでしょう。しかし、ここでは「歩いてきたり」といわれることで、「六月」が人型の立体感をもって迫ってくるような印象があります。「六月」が歩いてくる方向に眼を凝らすと、そこに見えるものは「ひかりのなかに白いブラウス」なのです。白いブラウスを纏っている人は誰なのでしょうか。知人でしょうか、それとも全く知らない誰かでしょうか。あるいは人ではないのかもしれません。六月そのものが白いブラスを纏って歩いてきているのかもしれません。このとき六月のイメージは光輝く明るさと濁りのない白に満たされているようです。明度と行動が巧く掛け合わされ、躍動感ある一首になっていると感じます。

六月は酸素がいたくうすい月ソーダ飴が口にはじける

作者中津昌子
歌集『風を残せり』
tankalife

高山に登る場合はともかく、同じ場所にずっと暮らしていて、酸素が濃い薄いを意識することはあまりないのではないでしょうか。しかし、ここでは六月は他の月に比べて酸素が薄いと主体は感じているのです。実際、高温となる日は大気中の酸素濃度が若干減少するとされています。ただ「いたく」とある通り、主体が感じているのは、物理的に薄いという意味以上に、心理的に薄いということでしょう。さて、ソーダ飴を一粒口に頬張ったのですが、ソーダ飴のしゅわしゅわとはじける様子がとても心地よく感じられます。はじけるソーダ飴は、酸素の薄い状況を打破してくれるような爽快感を与えてくれるのではないでしょうか。ソーダ飴の小さな泡は、酸素こそ生み出しはしませんが、可能性と期待感が膨らませてくれる、そんな印象を受ける一首です。

ふくざつな雲のすきまに六月のひかりさし貝釦かひぼたんをすてる

作者河野美砂子
歌集『ゼクエンツ』
tankalife

雲が幾重にも折り重なっているように見える六月の空でしょうか。単調な雲ではなく「ふくざつな雲」として空を覆っています。その雲の隙間に光が射したのです。この光は何かの恩寵でしょうか。恩寵ではなかったとしても、何かしらの合図のようにも思います。主体はこの光に対して、何かを感じとったのかもしれません。結果として光が射した現象は「貝釦をすてる」行為を導き出しました。これまでに、着ることのなくなった洋服の貝釦を多数集めていたのでしょうか。貝釦の光沢のきらきらした様がそこにはあるのでしょうが、主体はそのきらきらをも一緒に捨て去ってしまったのです。日常のややこしい状況が「六月のひかり」によって解消の糸口が見つかり、あっさりと貝釦を捨てることによって清々しい心境がこの後には訪れたのではないでしょうか。音の面でいえば、「ふくざつ」と「ひかり」のH音、「雲」と「貝釦」のK音、「すきま」と「すてる」のS音がそれぞれ語頭の音として対応していますが、上句と下句でこの順に呼応しているところは意識的に詠み込まれたのかもしれません。

六月の曇天のなかの電線にしろき碍子がいしまるかなしゑ

作者小池光
歌集『サーベルと燕』
tankalife

「碍子」とは、電気を絶縁し、 電線を支えるための器具のことです。電線や鉄塔についていて、白いそろばんのような見た目をしている、あれです。「かなしゑ」の「ゑ」は詠嘆を表す助詞です。主体は六月の曇天に「しろき碍子」を見つめていたのでしょう。碍子が電線にぴったりと嵌まる様子を「かなしゑ」と詠っています。「かなし」には「悲し」「哀し」と「愛し」がありますが、この歌ではどちらかといえば前者の「悲し」「哀し」の意味が強いと思います。それは「嵌まる」という表現からくるものであり、流れゆく雲との対比において、碍子は動きの自由度がないように感じるからです。碍子の役割である絶縁ということも、また関連しているかもしれません。絶縁するために配置される碍子を思う主体のまなざしが何ともいえない雰囲気を醸しだし、さりげない歌ながら印象に残る一首です。

六月のたび紫陽花の生えてくる家とおぼえて角を曲がりぬ

作者山木礼子
歌集『太陽の横』
tankalife

毎年、六月になる度に紫陽花が咲く家があり、この家は曲がり角に建っているのだと思います。道をいくとき、特に道を曲がるとき、何か特定の目印を見つけて、方向転換することがあると思いますが、主体にとってこの家はそのような目印として記憶されているのでしょう。「生えてくる」から紫陽花の状況は、一輪や二輪ではないでしょう。自然の力を存分に感じさせるように、多くの紫陽花が重なりあいながら咲いている様子が浮かんできます。紫陽花が咲くのは限られた期間ですが、一旦「六月のたび紫陽花の生えてくる家」として記憶されれば、紫陽花が咲かない季節もこの家は目印として機能し、主体は紫陽花があってもなくても角を曲がることができるのです。「生えてくる」というところに生々しさと生命力を感じる一首です。

うろこあるはだの歓喜は六月の水ぬめらかな岩の間をゆく

作者小島ゆかり
歌集『憂春』
tankalife

岩の間を流れる川をゆく魚を詠った歌です。人間は鱗をもちませんが、鱗をもつ魚は鱗をもつがゆえに感じる「歓喜」があるのでしょう。「水ぬめらかな」という表現がとても巧く、鱗と水がぴったりと合わさっていて、まるでその境界がなく融合しているような感じが伝わってきます。魚という語を使わず魚を表現し、しかも主語は「歓喜」としているところに、物体としての魚ではなく、生命力と感情のあふれる魚が歌の中で躍動している一首だと感じます。

水無月の短歌

6月は6月でも、「水無月」という表現に関わる短歌を取り上げています。

ほないこか青虫ふんでもええやんか水無月のこの陽ざしをさけて

作者江戸雪
歌集『駒鳥』
tankalife

「ほないこか」という関西弁が、やわらかさとともに何とも元気になりそうな響きをもって伝わってきます。「青虫ふんでもええやんか」と続いていくわけですが、「ええやんか」も「ほないこか」と呼応しているように思います。普段生活しているとどうしても法やルール、慣習などの縛りを自らに課してしまいがちですが、この歌からはもっと自由でもいいのではないかという思いが滲み出ているように感じます。青虫を踏んでもいいという許しは、そのような縛りから我々を少し解放してくれるように思います。「水無月のこの陽ざしをさけて」いくのですが、果たしてどこに向かっていくのでしょうか。陽ざしをさけるということは暗がりの方へ向かうのでしょうか。暗がりの中では、青虫も見えにくいのかもしれません。だけど、青虫を踏まないように注意深く進むのではなく、踏んでもいいから思い切りいこうじゃないかという、そんな雰囲気が伝わってきて、気持ちのよい一首です。

家族といふ命いつまで水無月の田を鷺は飛ぶ首をすくめて

作者黒瀬珂瀾
歌集『ひかりの針がうたふ』
tankalife

子育ての日々を送る中で詠われた一首です。人の命はいつ絶えるのかはわかりません。特に幼い子どもに対しては、今日も生きていてくれるだけでとてもありがたく感じるものです。ここで詠われているのは、命は命でも「家族といふ命」です。命は個々がそれぞれもっているものですが、そのそれぞれが家族という関係で結ばれることでひとつの大きな命として捉えられています。ですから、家族がみな健在であり、誰も欠けることなく、ここに在るということが「家族といふ命」を生きているということに他ならないでしょう。鷺が田を飛ぶ様が描かれていますが、鷺は「家族といふ命」を知ってかしらずか、首をすくめて飛んでいるのです。命の永続性に対して、鷺が飛ぶ日常性との対比が、より一層「家族といふ命」のかけがえのない様子を示していると感じる一首です。

藪蔭の淵より出でてしらじらと青水無月の空映す水

作者沢田英史
歌集『異客』
tankalife

陰暦六月は一般的に水無月といいますが、青葉が生い茂る時期を指すことから、青水無月とも表現されます。歌集において、この歌が収められている一連には川や滝を詠った歌があり、この水はその川の水を指しているのでしょう。「藪蔭の淵」から川の流れが現れて、その水の流れは主体の眼前に存在感を示しているいるのだと思います。「しらじらと」とあり、光を受けた水が白く輝く様子を想像します。そして白さと光あふれる水にも、よく見れば「青水無月の空」が映っているではありませんか。白と青、光と空など、色彩と明るさ、そして自然が美しく融合するような印象を覚える一首で、「青水無月」という言葉がその美しさを底支えしているように感じます。

水無月の竹林を降る葉もあらぬしずけさにかん﹅﹅と一本の鳴る

作者大下一真
歌集『即今』
tankalife

水無月の竹林。葉が降る様子もない竹林は静けさに満たされているのでしょう。それはとても静かであり、本来空気が満ちている空間に、空気の代わりに、まるで「しずけさ」が満ちているような、そんなことを想像させる「しずけさ」です。そのような静けさの中で音が鳴りました。「かん」と鳴ったのですが、何の音でしょうか。竹同士がぶつかった音かもしれませんし、気圧や気温の変化により竹の内部が変化して出た音なのかもしれません。一本とあるので後者かもしれません。「かん」という音はとてもよく響いたのでしょう。静かであればあるほど、相対的に「かん」という音はその存在感を大きくしていくのです。「かん」だけが静寂の中のひとつの突起物のような存在となり、主体の心を捉えてしまった様が描かれる一首だと思います。

水槽へ午前のみづを充たしゆく水無月に来し金魚のために

作者川本浩美
歌集『起伏と遠景』
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夏祭りか何かの金魚すくいで得た金魚でしょうか。金魚を泳がすために、水槽へ水を充たしていく場面です。「午前のみづ」という限定がよく、やや冷たさを帯びた水を想像します。読んでいて音の統一が図られている点も見過ごせません。「みづ」「充たしゆく」「水無月」の「み」の音が心地よく連鎖し、「来し」「金魚」の「き」の連続もそれに続きます。リズムよく読める滑らかさは、水槽の中を金魚がスムーズに泳いでいく様子へつながっていくようでもあります。さりげない場面ですが、この歌のような詠い方によって、光景がとても鮮やかに立ち現れる一首なのではないでしょうか。

シートベルトしづかに外すみなづきを統ぶる法典にそむきつつ 雨

作者川﨑あんな
歌集『さらしなふみ』
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「みなづきを統ぶる法典」とは何でしょうか。ここでは、具体的に何かの法典や法律を指しているというよりも、もう少し広い意味での秩序のようなものを意味しているのではないでしょうか。水無月には水無月の秩序のようなものがあり、それに背くことはすなわち、シートベルトを外す行為に象徴されるのかもしれません。「雨」は恵みの雨でしょうか、それとも法典に背いたことによる罰則としての雨でしょうか。そのような区別すらおそらく不要なのでしょう。そこにはただ雨が降っている状況を捉えればよく、その雨に対して恵みだ罰だと判断を下すこと自体が怖れ多いことなのかもしれません。「シートベルト」「しづかに」「統ぶる」「そむきつつ」といった語頭のS音の連なりが、読んでいてとても心地よく、意味を味わうよりもまず音を前面に味わった方がいい一首ではないでしょうか。

声なく泣きて疲れたる朝 現し身のきみは水無月の雨に目ざめむ

作者横山未来子
歌集『水をひらく手』
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朝から泣いているのはなぜでしょうか。歌集において、この歌の一首前の歌は〈目覚むればわれは泣きをり生まれ落ちし瞬間の心細さに充ちて〉であり、心細い気持ちになったことが泣いている理由なのだと思われます。「声なく泣きて疲れたる」とあり、声を抑えてはいるけれども、どうしても泣きやむことができず、ずっとそのように泣いていたことから疲れてしまったのでしょう。三句に「きみ」が登場しますが、主体の隣で眠っていたのでしょうか。「現し身」とは現在生きている身のことであり、「きみ」は実体をもって提示されますが、泣いている主体と異なり、もうすぐ「きみ」は「水無月の雨」に目覚めるのです。水無月の雨の潤いによって、そしてやわらかな降雨の音によって、目覚めることの美しさが湛えられているように感じます。目覚めた後の「きみ」は、果たして主体を癒すことができるのでしょうか。水無月の雨が二人の間を滑らかに媒介していくことが想像できる、そんな一首ではないでしょうか。

労働に溺れてないか水無月は雨降るよりもながく曇れり

作者島田幸典
歌集『no news』
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水無月は降雨の多い季節だと思いますが、雨の降っている時間と曇っている時間を比べると、曇りの時間の方が多いのかもしれません。何となく雨が多いという印象で捉えがちですが、物事を丁寧に見ていけば、実際は曇りの方が多いという新たな発見が生まれます。水無月は雨より曇りが多いという状況を把握した上で、「労働に溺れてないか」という問いが主体に兆したのです。ここでの溺れるは、自ら望むかたちで没頭するという方向にも採れなくはないですが、どちらかといえば望んではいないけれど知らずしらずのうちに労働に飲み込まれてしまっている状況を指しているのではないでしょうか。やがてワーカーホリックになってしまうかもしれません。没頭と中毒は違います。その線引きを自覚していないと、人はたちまち労働に溺れることになるのでしょう。労働の本来の姿、水無月の本来の状況を、本当に見つめているのか、そんなことを問われているような一首だと思います。

夕立のつづく水無月雨やみしのちも葉を打つ風響きをり

作者菅原百合絵
歌集『たましひの薄衣』
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耳というのは不思議なもので、ずっと鳴っていた音が突然遮断されると、もう音は鳴っていないのに、まだその音が継続しているように感じることがあります。この歌においては、しばらく夕立が続いていたのでしょう。夕立は樹々の葉を打って降っていました。夕立が止んだ後、主体には葉を打っている音がまだ聞こえ続けたのではないでしょうか。夕立後に聞こえたのは、正確には雨ではなく「葉を打つ風」の音であり、雨の音が続いていたわけではありません。しかし「葉を打つ」とあるので、夕立が葉を打っていた音がそのまま継続されるような感じを受けます。そもそもこの風は本当に実在していた風なのでしょうか。風の音が響いていたのでしょうか。風が葉を打っていると思っている音は、実は幻聴なのではないでしょうか。雨が葉を打っていた音がずっと続いていたことにより発生した幻の雨の音なのではないでしょうか。「雨やみしのちも葉を打つ」という表現がそんな不思議なことを感じさせてくれ、印象に残る一首です。

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