香車の駒のうらは杏としるされてこの夕暮をくりかへし鳴る
荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』
荻原裕幸の第六歌集『リリカル・アンドロイド』(2020年)に収められた一首です。
将棋の駒で、歩、香車、桂馬、銀将は、相手陣地に入った場合、金将と同等の動きをもつ駒に成ることができます。
ですから、これらの駒の裏にはいずれも「金」の字を崩した文字が書かれています。
掲出歌に登場する「香車」の場合も裏面にはもちろん「金」の字を崩した文字が書かれているのですが、駒の種類によっては「杏」と書かれているものも見られます。
成駒となった香車を「成香」といいますが、パソコンでこれを表そうとすると特殊なフォントが必要となります。しかし特殊なフォントを使わずに「成香」を表す方法も存在し、その際に使われるのが「杏」という字なのです。
そんな香車に注目した歌ですが、結句の「くりかへし鳴る」の「鳴る」とはどのような意味なのでしょうか。
駒が成るとき、駒をひっくり返して盤上に音を立てて指されることが多いと思いますが、そのときに盤と駒との間で鳴る音を指しているのではないかと想像します。
香車の動きは一直線であり、一度にどこまでも進むことが可能です。したがって、どれだけ相手陣地から離れていても一気に相手陣地に入って成香となることができるのです。度々成香となる場面を詠っているのでしょう。
通常は目で見る将棋を、聴覚で味わう将棋に転換したところが鮮やかであり、夕暮れに香車が成る音だけがどこまでも響いているような印象を与えてくれる一首だと感じます。