tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第9回(「行動」の第3回)です。今回は「好きな道を心置きなく踏みしめる」と題して、人生で本当にやりたいことをやっているのかについて見ていきたいと思います。
どんな人生を歩んでいこうかを考えるとき、何を基準に思い描くのがいいのでしょうか。
自分がやりたいことかどうかでしょうか、それともお金がたくさんもらえるかどうかでしょうか。あるいは多くの人々に認められるかどうかでしょうか。SNSのフォロワー数が増えるかどうかでしょうか。
まずは次の一首を見てみましょう。
未来への道順示す矢印は何処にも無くて迷う地下駅 大井学『サンクチュアリ』
どこへ向かえばいいのか、自分はどこへ向かおうとしているのか。
人生の折々、そんな悩みが湧いてくるときもきっとあるでしょう。自分で決めることができれば、そもそも迷うこともないのですが、自分で決められないから迷うわけです。
そんなときは何かヒントや手がかりがほしいものです。ヒントや手がかりをきっかけに向かうべき方向が定まってくるでしょう。でも、この歌では探せども道順を示す矢印は見つからないようです。とことん迷うしかなさそうです。その迷いの先に、かすかに見える程度の矢印が現れてくれるかもしれません。
この歌では、道順が見えずに迷っている様子が表れていますが、このように何のヒントもないと行き先選びに困りそうです。
では、何か行き先を決めるためのきっかけになるヒントはないのでしょうか。人生の選択におけるヒントや手がかりをひとつ取り上げるとすれば、「好き」というキーワードが挙げられるのではないでしょうか。
坂口恭平氏の『生きのびるための事務』に、次のような言葉が見られます。
生きてる間にすることって、自分が何が好きなのかを探して、見つかったら、死ぬまでそれをやり続けるってだけです。それだけです、人生は。
《好き》は《自信》を凌駕(りょうが)する。《自信》はなくなると作業が止まりますが、《好き》は止まりません。
どちらの言葉からも「好き」が大切であることが伝わってきます。
結局、人生を見つめた場合「好きかどうか」が一番大事なことなのかもしれません。一生は短いといえば短いですし、長いといえば長いです。何をやるにしても、ずっと続けていけるかどうかを考えた場合、やはり好きかどうかということはとても重要でしょう。好きであればずっと続けられますし、それを続けていること自体が楽しいことであり、つまりは人生が充実するということです。
果てしなく透きとおっている行き先を持って僕らはたなびいている 早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
行き先が「透きとおっている」とは、確定していないという意味を表しているのではないかと思います。
確定していないことは、不安ではなく、むしろ無限の可能性を秘めているということなのでしょう。無限の行き先が同時に存在することは、どこへでもいけるということであり、どれをいつ選ぶかも自分自身にまかされているのです。
その選択において「好きかどうか」が基準のひとつになるのかもしれません。無限にある可能性からひとつを選択するとき、「好きかどうか」で選ぶことができれば、それは幸せなことなのでしょう。
もう一首見てみましょう。
起きなくちゃ飽きなくちゃここにいることに まぶしい夢の光源はどこ? 初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』
「まぶしい夢の光源」がまさに目指すべき場所として輝いています。
「ここにいること」を否定はしていないけれど、今のままでは駄目だという思いが湧き上がってきているのかもしれません。「起きなくちゃ」は目覚めよ、「飽きなくちゃ」はこのままではいかんぜよ、といった感じでしょうか。目指す方向はまだ見えていないようですが、夢の光源があることだけはすでに把握しているのです。あとは光源に向かっていくだけです。
その光源が、自分の「好き」の延長線上にあれば最高ですね。
ただ、「好きかどうか」だけで人生の道を選択することは中々難しいものかもしれません。それは自分ひとりで生きているわけではないからです。どうしても他者の存在を意識してしまうときはあるでしょう。「好き」だけで選ぶことができればいいのですが、他者の存在という制約がかかってしまうケースもあると思います。
次の歌は、そんな他者の存在が、自分の選択に影響してしまったと感じられる一首です。
ああ人に見せられる行き先にしちゃった ほんとにそこに行くんだろうか 我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』
ここでいう「行き先」は人生の方向と捉えたいと思います。
これからの人生、どの方向に進みたいかを考えるとき、純粋に自分が向かいたい方向を選んでいるでしょうか。その選択には、周りの人にどう思われるか、体裁がどうかといった判断は一切含まれていないといえるでしょうか。
「人に見せられる行き先」とは、つまるところ他人がOKを出してくれる行き先のことだと思います。その行き先は本当に自分が望んだ行き先なのでしょうか。それは他人にNGを出されないために妥協して選んだ行き先になってはいないでしょうか。
「ほんとにそこに行くんだろうか」とありますが、この歌では自分で自分に疑問を感じているのではないでしょうか。本当はその「行き先」にいきたいわけではないけれど、その「行き先」を選択してしまった状況に思えます。
本当に望む行き先は人に見せられないものかもしれません。見せられないからこそ望む行き先としてふさわしいのかもしれないと思います。向かうべき道を決めるのに、他人のOKをもらう必要はまったくありません。
自分が「好き」だと信じた道なら、その道を進んでいきたいものです。優先すべきは、「他者への体裁」ではなく「自分の好き」ではないでしょうか。
最後に、自信をもって「好き」といっている一首に触れておきたいと思います。
いつのまにか速足になる通勤路けっこう好きだこの人生は 大松達知『ばんじろう』
仕事にいくの嫌だなあと感じる人も多いと思いますが、この歌は仕事へいく通勤時間のウキウキした様子が伝わってきます。
「けっこう好きだこの人生は」がいいですね。完璧ではなく「けっこう」とあるので、もちろん、いいことばかりではないのでしょう。けれど、総合的に見れば「けっこう好きだ」なのです。肯定的に人生を捉えているところに、共感できるのではないでしょうか。
さて、私がやりたいことは何だろうと自問してみました。今やりたいと感じることは、こうやって文章を書いたり、あれこれ考えたりすることです。そしてその根底には「人生を1mmでもよくしたい」という思いがあります。
これまで、システムエンジニア、青年海外協力隊員、事務員と色々とやってきました。改めて自分が望むことは、人生をよりよくしたいということが一番だと感じます。
人生をよりよくするにはどのようなヒントや考え方があるのか。文章を通してそれを伝えていけたらいいと思っています。巧い下手ではなく、書きたいと思うかどうか。もちろんどんなジャンルでも書きたいわけではないく、やはり「人生よりよくするには」を根底において書いていきたいと感じています。
どうせ生きるなら、もっと楽しくよりよく生きていきたいというところから、「人生を1mmでもよくしたい」の記事シリーズは生まれました。
短歌に触れながら書いているのは、やはり短歌の力を感じているからです。短歌を初めて読んだときの衝撃は、言葉という表面に留まらず、自分の体や考えを貫いてくるものでした。
「好きかどうか」。本当に自分が今やっていることは「好き」なことなのだろうか。イヤイヤやっていないだろうか。効率だけを重視していないだろうか。自分の心に問いかけながら、進んでいきたいと思います。


