4月の短歌

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4月の短歌

「4月」に関わる短歌をピックアップしてみました。4月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。

目次

4月の短歌

4月、四月、しがつ、Aprilなどの言葉が含まれる短歌を取り上げています。

「春の書店くじ」を四月の来るたびに貰いそのまま忘れてしまう

作者松木秀
歌集『5メートルほどの果てしなさ』
tankalife

かつては、四月の一定期間に本を購入すると「春の書店くじ」がもらえました。本を贈る日として知られる4月23日「サン・ジョルディの日」に合わせて行われていたイベントです。現在は廃止され、QRコードを活用した「春の読者還元祭」に移行しています。書店くじは集めると賞品に応募できたのですが、主体も本を買う度に何枚かもらって、結局応募せず忘れてしまっていたようです。何の本を買ったのでしょうか。普段とは違う特別な本だったのでしょうか。誰かに贈るための本だったのでしょうか、それとも自分用の本だったのでしょうか。「春の書店くじ」という具体物が、一首の中で活き活きと存在感を示しています。「春の書店くじ」から、どんな本を誰のために買ったのかを自由に想像する楽しさがある一首です。

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな

作者前田夕暮
歌集『収穫』
tankalife

四月に結婚を控えているのでしょう。木に花が咲く様子が思い描かれていますが、四月に見頃を迎える桜を指しているのでしょうか。花が満開となり、そしてその満ちあふれた輝きの中で「君」が妻になる日を思い浮かべているのです。「君」との関係が春のあたたかな雰囲気と重なります。「四月なかなか遠くもあるかな」の表現がとても心地よく感じられ、魅力的に映ります。四月の来るべきその日を待ち遠しく思う気持ちがとてもよく伝わってきて、喜びにあふれた一首だと思います。

桜の多い街に住むひとだけだった 恋人はみな四月の季題

作者伊波真人
歌集『ナイトフライト』
tankalife

「季題」とは、俳句の題詠において題にする季語のことです。「恋人はみな四月の季題」は、辞書には載っていない独特の定義を示してくれていると思います。「桜の多い街に住むひとだけだった」で詠われている「ひと」とは一体誰を指すのでしょうか。主体が目にしている光景の中に何組かの恋人たちがいたのでしょうか。それら恋人たちはみんな桜の多い街に住む人だと、主体がわかっていたという状況でしょうか。あるいは、主体がこれまでつきあってきた恋人が何人かいて、その人たちはみんな桜の多い街に住んでいた人だったという意味でしょうか。この上句は少し判断しづらいのですが、「ひと」=「恋人」と読むことは問題ないでしょう。したがって、「桜」「恋人」「四月」がつながっていくことになり、桜が咲く春の心地よいあたたかさの中で、恋人が四月そのものの象徴として立ち上がってくるように感じる一首です。

本尊なき御堂のごとき淋しさに耐えられるのか四月のアルタ

作者笹公人
歌集『念力ろまん』
tankalife

仏像を安置した堂が「御堂」であり、本尊のない御堂は、本来の御堂としての位置づけではなくなってしまっているのかもしれません。そんな御堂に喩えられたのが、新宿にあるスタジオアルタです。スタジオアルタで生放送していた、お昼のバラエティ長寿番組「森田一義アワー 笑っていいとも!」が終了したのが2014年3月31日です。アルタといえば「笑っていいとも!」、「笑っていいとも!」といえばアルタというくらいの深い関係性があったと思います。「笑っていいとも!」が終了したことで、アルタという存在における看板がなくなってしまったのです。主体はそれを淋しさと捉えています。「本尊のなき御堂」が端的で的確な比喩として印象に残る一首です。

ゆりかもめに乗れば四月の草原に重機が何台か置いてある

作者鈴木ちはね
歌集『予言』
tankalife

正式名を東京臨海新交通臨海線という「ゆりかもめ」。新橋駅と豊洲駅の間を走る路線ですが、そのゆりかもめに乗っている場面です。季節は四月。「草原」とあるので、街中の様子ではなく、開けたエリアを見ているところでしょう。また重機が何台か置いてあるのを目にしていますが、これから開発されるエリアなのかもしれません。ゆりかもめに乗らなければ、おそらく見ることのなかった草原であり、何台かの重機だったのではないでしょうか。ゆりかもめに乗ったから見えたものであり、この光景との巡り合わせを感じます。「四月」「草原」がさわやかで軽みを帯びたイメージのある一方、「重機」の文字通りの重たさが対比的に感じられ、そこに若干の不調和を感じるような一首ではないでしょうか。

考えることは言葉の奴隷だと考え運ぶ四月の辞書を

作者佐佐木定綱
歌集『月を食う』
tankalife

人間は常に何かを考えているでしょう。考えるよりも、何も考えないということの方が難しいように思います。考えるとは何か。さまざまに定義はあるでしょうが、ここでは「言葉の奴隷」と紐づけられています。考えることにおいて、人は必ず言葉をもって考えているわけで、言葉なくして考えることはできないのでしょう。したがって、言葉に奴隷扱いされている自分を改めて見つめ直しているのです。とはいっても、言葉なしに考えることはできないので、仕方なく言葉をもって考えを巡らしているのです。四月に辞書を運びながらそんなことを考えていたのでしょう。年度替わりで辞書の需要も増すのかもしれません。辞書がピックアップされているのも皮肉なもので、辞書は言葉の意味、言葉の源を探る言葉の集合体のようなものです。言葉の奴隷だと思いながら、辞書を運ぶ姿は、言葉から逃れられないひとりの人間を映し出しているのではないでしょうか。

「4月からピンクの帽子のここちゃんです!」
おかあさんはさみしいのです。

作者今橋愛
歌集『としごのおやこ』
tankalife

「ここちゃん」とは子どもの名前でしょう。歌集において、この歌の一首前には〈よんさいになったここちゃん/ばらちゃんから/さくらさんになったここちゃん〉とあり、年度が替わり組が替わったことが窺えます。さくら組なので「ピンクの帽子」なのでしょう。「おかあさんはさみしいのです。」に実感が滲み出ています。子どもの成長はうれしいものですが、気がつけばあっという間の出来事です。もう少しばらく今の時間を、三歳のままのここちゃんを、味わいたかったというのが本音ではないでしょうか。いつまでも同じ場所に留まるわけにはいきませんし、子どもの成長を見守りたいという気持ちもあるでしょう。しかし、うれしさと同時に淋しさが訪れることも否定はできません。子の発言の元気よさとは対比的に「おかあさん」の心境は複雑なのだと感じます。

アイビーのさみどりの葉の増えやまず四月半ばを過ぎた頃より

作者染野太朗
歌集『あの日の海』
tankalife

「アイビー」とは植物の蔦のことです。野球好きの人にとっては、阪神甲子園球場の壁面をイメージすればわかりやすいでしょうか。さて、主体はどこかでアイビーが茂っているのを見たのでしょう。四月半ばまでは順調に葉を増やしていたアイビーですが、四月半ばを過ぎたあたりから、「さみどりの葉」は増えなくなってしまったようです。ここに主体の継続的な目が感じられます。特定の一日だけを見たのでは、増えているのか減っているのかもわかりません。しかし、四月半ばを過ぎた頃から葉が増えていないことを見ていますから、アイビーを見たのがこの日だけではないことがわかるでしょう。何気ない日常の場面を詠った歌ですが、そこには時間的経過と、主体の確かな目が感じられ、中々印象深い一首ではないでしょうか。

花粉症だからミモザは飾れない四月は善い顔するからきらい

作者櫻井朋子
歌集『ねむりたりない』
tankalife

黄色が鮮やかなミモザ。幸せの花として扱われることもあります。主体はミモザに対する花粉症なのでしょう。ミモザを飾りたいという思いがないわけではないけれど、花粉症だから飾っていないのです。ここまではよくわかりますが、下句がインパクトをもって迫ってきます。一般的に、四月という季節に対して悪いイメージをもっている人は少ないのではないでしょうか。桜の開花、花見、年度替わり、入学、就職、出会い、あたたかな気候など、どちらかといえば希望や心地よさを感じている人が多いと思います。しかしここでは「善い顔するからきらい」とはっきりと詠われています。上句と関連させて考えると、例えば春に花が咲き誇るというひとつの事象を取り上げてみても、疑いもせず無条件でいいことであるとみんなが受け入れていると思われる状況に抵抗したくなったような心境でしょうか。花が気持ちよく咲いていますよ、という「善い」こと前提で現れることに対して、主体は「きらい」を突きつけているのではないでしょうか。我々が当たり前に受けとっている四月のイメージについて、改めて考えさせられる一首だと思います。

晴れの日はなぜか静かにかなしくて変わらずにある四月のポスト

作者小島なお
歌集『乱反射』
tankalife

四月のある晴れた日ですが、主体はかなしさを感じています。「なぜか」とあるので、理由は主体自身もわかっていません。そして「静かに」かなしいのです。この日に限らず、晴れの日はなぜかかなしく感じることが多いのかもしれません。その象徴として「四月のポスト」が登場します。晴れの日の中に立つポストは、ずっとその場にあり続けているのでしょう。場所を移ることもしないポスト。朝も夜も同じ姿勢であり続けるポスト。そんなポストの存在を、主体は以前からずっと見てきたのではないでしょうか。「変わらずにある」ことをどう捉えるかはそれぞれですが、そこにかなしさの一端があるのかもしれないと感じる一首です。

業務用手袋をして丸パンにハムはさみゆくごとし四月は

作者中沢直人
歌集『極圏の光』
tankalife

四月の喩えとして、「業務用手袋をして丸パンにハムはさみゆくごとし」と詠われています。この喩えを具体的にどのように読めばいいのか難しいのですが、四月のある日に、実際に業務用手袋をして丸パンにハムを挟んでいる光景を目にしたのではないでしょうか。四月、丸パン、ハムときて、何となく春のイメージがやわらかに膨らんでいくような気がします。ただ「業務用手袋」が少し違和をもたらしているでしょう。販売されるパンであれば、感染防止や衛生面を考慮した結果、業務用手袋をつけるのは当然のことかもしれませんが、歌に詠み込まれることで、急に業務という枠組みに迫られるように感じます。人がハムを挟んでいるのですが、どこか機械的に同じ作業が繰り返される、そんなイメージも浮かんできます。はっきりといえませんが、このような若干の違和感と強制力のようなものが、四月の喩として表現されている、そういった一首なのではないかと感じます。

種々無限しゆじゆむげん唱へて進む雲が見ゆ花終りたる四月の空に

作者小島ゆかり
歌集『希望』
tankalife

「種々」とはさまざまなもの、「無限」とは限りがないこと、つまり「種々無限」とはさまざまなものが限りなく存在することを意味しています。桜の花が散った後の四月の空に雲が見えている場面ですが、その雲が「種々無限」を唱えているのでしょう。そして雲はどんどん移動していきます。すなわち、時間の経過とともに雲のかたちが自由自在に変化していくことこそが、種々無限そのものなのでしょう。花は永遠に咲き続けることはなく、いつかは散ってしまいます。雲のかたちも永遠に同じかたちを留めるわけではなく、次から次にかたちを変えていきます。ここで見ているのは無常でしょう。花と雲の提示が、具体的に無常観を感じさせてくれる一首だと思います。

同い年の課長が増えてくる四月 体言止めで終える報告

作者堀合昇平
歌集『提案前夜』
tankalife

四月は人事異動の季節です。「同い年」は同期を指しているのでしょうか。同期が昇進して課長になったのかもしれません。あるいは外部から入社してきて課長に就任した人が、自分と同じ年齢だったということでしょうか。ここではどちらも含めてのように思います。とにかく四月に「同い年の課長」が増えている状況でしょう。さて「体言止めで終える報告」とはどのような報告でしょうか。ここでは報告書のことでしょうか。それとも口頭での報告のことでしょうか。箇条書きなどの場合、体言止めが用いられますが、報告書や口頭の報告において主に体言止めを用いることはあまりないでしょう。この報告は誰から誰に対しての報告なのかがはっきしていません。会社が掲示等で課長が増えたという報告をしたのであれば、確かに体現止めで簡潔に示されたのかもしれません。あるいは、主体が同い年の課長に対して行う報告であれば、同い年でよく知った仲だからこそ、簡潔に体言止めで報告が可能ということでしょうか。下句の読みをどうすればしっくりくるのか、いまだにわからずにいますが、そのわからなさに却って気になる一首となっています。

飲みかけの炭酸飲料残されてさびしからずや四月メーデー

作者松村正直
歌集『やさしい鮫』
tankalife

メーデーとは5月1日に世界各地で行われる労働者の祭典です。メーデー(May Day)の文字通り、本来五月祭を意味しています。しかし、メーデーの集会が四月に開催されている現状があります。開催を土日に合わせるためでしょうか。四月に開催されるメーデーの集会を「四月メーデー」といっているのだと思います。「さびしからずや」がかかるのは、飲みかけの炭酸飲料が残されていることに加え、「四月メーデー」にかかります。本来5月1日である日を前倒しして四月に集まることは、さびしさを伴うものではないかという問いかけのようです。どこか完全燃焼ではない様を感じます。「飲みかけの炭酸飲料」がその不全感をよく表しているのではないでしょうか。炭酸飲料はボトルを開けた瞬間は炭酸の勢いがあり、刺激を感じますが、そのまま放っておくと、炭酸の勢いはいつしかなくなってしまいます。四月のメーデーも、その日は盛り上がるかもしれませんが、終わった後はその盛り上がりの勢いもどこか風化してしまうのではないでしょうか。そして実際のメーデー5月1日は、もう飲みかけの炭酸飲料そのものとなってしまうのでしょう。喩の効いた一首だと感じます。

ねむたさうにひとはみてゐるあかるくてなにもみえない四月の窓を

作者魚村晋太郎
歌集『バックヤード』
tankalife

「四月の窓」の明るさが立ち現れてくる一首です。その窓を見ている人がいるのですが、「ひとは」の「は」から、特定の人というのではなく、複数の人たちといった印象があります。そして「ねむたさうに」見ているのです。時間帯は朝でしょうか、昼でしょうか、夜でしょうか。いずれの時間帯にも「ねむたさうに」はあり得るでしょう。また窓を見ているのは、外側からでしょうか、内側からでしょうか。外側からであれば、家や建物の中の灯りが明るい状況ですし、内側からであれば、外の光が明るい状況となります。捉え方はさまざまあると思いますが、「ねむたさうに」とあるので、建物の内側にある机か何かに肘をつきながら、窓を見ている様子を想像しました。そして明るいのは、日中の陽の光が窓にあふれている時間をイメージしました。午後のひとときの、穏やかでありながらも、気怠さを伴うような時間において、四月の窓だけが明るく輝いている場面です。「なにもみえない」けれど、その窓を見ずにはいられないのかもしれません。具体的な景は見えなくても、そこに明るさがあることだけは確かに感じられる一首です。

肩先に四月の光浴びている友ありトルソーを見るように見る

作者安藤美保
歌集『水の粒子』
tankalife

トルソーとは頭や手足のない胴体だけの彫像を意味する言葉で、彫刻の美術作品としてつくられたり、洋服展示の模型として使われたりします。ここでは友をトルソーを見るように見ている状況が詠われています。四月の光が、友の肩先を包んでいる様子を想像しますが、この光によって、友の胴体部分の輪郭が明るく浮かび上がってくるように感じます。光を浴びた友の輪郭の存在感は、彫刻としてのトルソーのような美しさを想起させてくれたのではないでしょうか。トルソーを見るように見るのは、一定の距離感があるように思います。この瞬間の友を見るとき、そこには近づきすぎず、離れすぎない物理的位置と心理的位置からの眼差しが感じられはしないでしょうか。

それならばいってください散りそうな花びらばかり目が追う四月

作者高田ほのか
歌集『ライナスの毛布』
tankalife

見ているのは桜かもしれません。散りそうな花びらばかりを目で追ってしまっている状況です。まだ散ってはいないけれど、散らないといいきれるほど安定している花びらでもないのでしょう。今にも散りそうなところに不安定な感じがよく出ていると思います。このような状況において「それならばいってください」は、プラスに転じる方の発言ではなく、やはりマイナス側、望まない側へ向かう発言がなされることを暗示させます。別れを告げられるのかもしれません。これまでの関係が変わるような大事なことをいわれるのかもしれません。まだいわれてはいないのですが、その発言がなされたとき、花は一気に散ってしまうのではないでしょうか。散りそうなぎりぎりの状況で耐えている心境が、切実に迫ってくる一首です。

たましいを誰かに売ってみたくなる四月地球のかすかな火照り

作者服部真里子
歌集『遠くの敵や硝子を』
tankalife

「たましい」を売るということは、自分の意思を誰かに委ねることに等しいのかもしれません。誰かに売ってしまえば、その誰かが主体の「たましい」を扱うことになるでしょう。売ってみたいということは、自らの意思を自ら手放したいということです。とはいっても、死にたい、というのとは少し異なるでしょう。たましいの所有者を自分ではない誰かに移したいということであり、消えてしまいたいということではありません。四月という出発の季節に、そのような思いに駆られるのはなぜなのでしょうか。「地球のかすかな火照り」は、だんだんとあたたかくなる四月を地球規模で捉えた表現なのかもしれません。その火照りに呼応するかのように、たましいを売ってみたくなる衝動がもたらされるべくしてもたらされたのかもしれないと感じる一首です。

空気からさむさがいなくなってゆく四月は胸がやぶれるところ

作者安田茜
歌集『結晶質』
tankalife

三月から四月にかけて、だんだんとあたたかさが増してきますが、それを「空気からさむさがいなくなってゆく」と表現しています。あたたかくなる、というありふれた言葉ではいい表せない手触りがここにはあると思います。そんな四月なのですが、「胸がやぶれるところ」をどのように捉えればいいのでしょうか。つらい、苦しい、かなしいといった感情を指しているのでしょうか。なぜ四月は胸がやぶれるのでしょうか。ある意味「さむさ」があることで保たれていた何かが、「さむさ」が失われることによって瓦解していくようなイメージかもしれません。「さむさ」を嫌がる人も多いと思いますが、場合によっては「さむさ」があることで維持されているものもあるということなのではないでしょうか。「さむさ」を失ったとき、「さむさ」の恩恵を感じるのです。主体にとっての四月は「さむさ」を失った「空気」の中で生きていかなければならないということなのかもしれません。

あけひろげ或いは夜具をしたたらせうつけておるか四月の家並

作者なみの亜子
歌集『鳴』
tankalife

四月の家並を見ている、あるいは想像している場面でしょう。「あけひろげ」は、扉や窓などを大きく開けて、家を開放状態にしているというふうにも採れます。しかし、「夜具をしたたらせ」と続くので、官能的な性愛の場面を想像してしまいます。そうすると「あけひろげ」は、心や体を開放するイメージにつながるのではないでしょうか。「うつける」は空っぽになる、ぼんやりするなどの意味ですが、性愛の場面を経てから、そこに住む人の「うつける」状態を表しているのではないでしょうか。それは人のみならず、家そのものにも通じ、この場所に並ぶ家々全体が、そういった開放感に包まれているような気がする一首です。

ガラス戸に無限の桜ちりかかる四月しづかな数学書フェア

作者石川美南
歌集『裏島』
tankalife

「書店員・Ⅰ」と題された一連の中の一首ですが、書店で数学書フェアが開催されている四月の場面でしょう。ガラス戸の近くに数学書フェアのコーナーが設けられているのかもしれません。風に吹かれた桜の花びらがガラス戸に散りかかってくる様子が浮かんできます。春の心地よい雰囲気の中、数学書を買う人は少ないのでしょうか。「しづかな」には人の気配は遠のき、数学書の存在だけが前面に出てくるように感じます。整然とした美しい数式は静かさそのものを連れてきてくれるようです。歌集において一首前の歌は〈『DNA』『幾何学』『春の数えかた』『ファインマンさん最後の授業』〉とあるので、このような数学書が並べられているのでしょう。音の面では「桜」「四月」「しづかな」「数学書」とS音が続き、四月という季節に関係して清々しさを感じさせてくれる一首です。

四月からは渡辺やうになるといふ陳陽ちんやうに渡す卒業証書

作者大松達知
歌集『ゆりかごのうた』
tankalife

三月で卒業する学生の中に「陳陽」という名の者がいるのでしょう。名前から想像すれば、中国かどこかの出身でしょうか。その陳陽が、卒業後の四月からは「渡辺陽」と名字が変わるようです。改姓といえば結婚かもしれませんし、国籍が変わるのかもしれませんし、あるいは別の理由かもしれません。これまでは陳陽として生きてきたわけですが、学校の卒業とともに、ある意味陳陽も卒業してしまうのです。主体は「陳陽」に卒業証書を渡しましたが、四月からはもう「陳陽」に接することはありません。四月以降接することができるのは「渡辺陽」なのです。主体は「陳陽」が「渡辺陽」になることに、ひどく喜んだり悲しんだりしているわけではないでしょうが、その出来事に本当にわずかな心の揺れはあるのでしょう。卒業証書を渡すときに何を思ったのか定かではありませんが、卒業証書というアイテムがキーとなり、何かしらの揺れが読み手にも伝わってくる一首なのではないでしょうか。

エイプリルフールかよって四月でも馬鹿でもなくて笑った KIDS

作者青松輝
歌集『4』
tankalife

エイプリルフールは四月一日ですが、「四月でも馬鹿でもなくて」とあるので、この歌は四月一日の出来事ではないようです。四月ではない月に「エイプリルフールかよっ」と笑ったのでしょう。そして笑ったときに、馬鹿でもないという認識をもっていたのです。どういう状況か想像するのが難しいのですが、誰かが嘘をついて、その嘘をネタバラシした場面でしょうか。それはエイプリルフールに行われるやり方と似ていたのでしょう。日にちがエイプリルフールなのではなくて、嘘からネタバラシという展開がエイプリルフールみたいだったということだと思います。最後の「KIDS」は、自分が子どものときにそういうことがあったということなのかもしれません。一字空けの後「KIDS」だけ単体で置かれると、急に子ども時代の一時期の記憶が凝縮されて浮かび上がってくるように感じます。すでにKIDSではない今、同じように発言し笑い合える状況は果たしてあるのでしょうか。

文字盤の大き腕時計あがなひてこの四月より出向先へ

作者小川真理子
歌集母音梯形トゥラペーズ
tankalife

四月から出向が決まり、まさに出向先への勤務に思いを巡らせているところでしょうか。主体は腕時計を購入したのですが、その腕時計の特徴は「文字盤の大き」さです。文字盤が大きいということは、時刻を表示する部分が大きいということであり、時間に対する主体の意識の表れにもつながっているように感じます。四月という季節、そして出向先が決まったということは、新たな出発であり、区切りでもあるのでしょう。そのタイミングに合わせて買われた、文字盤の大きな腕時計。腕時計と四月の出向とは直接的に何かが関連しているわけではありませんが、何かしら時間やタイミングに対する関係性を見い出したくなる一首です。

パチンコ「ラッキー」にて用を足す習慣ならはしも熟るる四月の中にみゆく

作者川本浩美
歌集『起伏と遠景』
tankalife

「ラッキー」という名のパチンコ屋があったのでしょう。よくパチンコに通っていたのでしょうか。そのパチンコ屋でトイレにいく習慣があったようです。しかし、その習慣もいつしか終わりを迎えるのです。習慣が終わったのは「熟るる四月」のことと詠われています。「熟るる四月」とはどのような四月でしょうか。果物が熟していくように、四月もだんだんと深みと味わいを帯びていく、そんな四月を想像しました。ここでいう用を足す習慣が終わるとは、パチンコ屋に通わなくなったということでしょうか。店名が「ラッキー」であるところに、名称は単純でありながらも考えれば考えるほど何か意味を感じさせてくれるように思う一首です。

無造作に猫の死体が横たはりあつけらかんと四月になりぬ

作者小笠原和幸
歌集『定本 春秋雑記』(セレクション歌人『小笠原和幸集』)
tankalife

道ばたでしょうか。猫の死体が横たわっています。その様子を見て主体は「無造作」と感じているのです。猫の死体を見ることはありふれた光景なのでしょうか。無造作がもたらす死体のあり様は、猫の命の重さを軽くしてしまっているように感じます。さて、「あつけらかんと」がこの歌のポイントでしょう。三月から四月になったとき、それは「あつけらかんと」移りかわったのです。その様は無造作な猫の死体に通じるものでしょうか。重々しく、あるいは厳かに四月がやってきたわけではありません。ぼんやりとした、あるいは何ごともなかったかのように四月がやってきたのです。「あつけらかんと」の言葉の選択がとても印象に残る一首です。

エプロンの誕生月はエイプリルエプロンを身につけ四月を招く

作者九螺ささら
歌集『ゆめのほとり鳥』
tankalife

エプロンが誕生したのは四月ということが詠われていますが、実際その通りなのでしょうか。「エプロン」と「エイプリル」。確かに音が似ていますので、語源をたどると通じるものがあるのかもしれません。まず、エプロンとエイプリルの関係性が示され、その流れで「エプロンを身につけ四月を招く」へと展開されていきます。エプロンを身につけて、これから始まる四月の明るさを招き入れようとする姿が微笑ましく感じられます。下句が効果的に働くのは、上句の提示があってこそでしょう。四月の明るさ、ウキウキとした気分のようなものがあふれています。上句のステップがあるゆえに、一層下句の展開が活き活きと感じられるのではないでしょうか。

降りいでし四月の雨は理髪屋の鏡のなかまで濡らしてしまう

作者杉﨑恒夫
歌集『パン屋のパンセ』
tankalife

主体が理髪屋で髪を切ってもらっているところだと思います。外には、四月の雨が降り出したようです。屋内まで雨音が聞こえてきているでしょうか。散髪の途中なので、主体は大きな鏡の前に座っています。ふと鏡の中を覗くと、そこに外の雨がおそらく映っていたのでしょう。「鏡のなかまで濡らしてしまう」という表現が魅力的に感じます。鏡の向こうに見える空間にも四月の雨は満ちていき、現実のこちら側の空間と、鏡の向こうの空間との境目は、あるようなないような不思議な感じがしてきます。鏡の向こう側の空間では、これからわくわくする雨の物語が始まるような印象のある一首です。物語が生まれる瞬間を見つけてしまった気がする、とても惹かれる歌です。

欲室を浴と正して四月号校了なれば観梅に行く

作者大森益雄
歌集『歌日和』
tankalife

短歌に関わる紙媒体でしょうか。四月号の校正作業を行っているとき、「浴室」と書くべきところが「欲室」となっているのを見つけたのでしょう。「欲室」であれば、どことなく官能的な感じがしますが、欲にまみれたエゴの塊のような室ともイメージできるかもしれません。そんなさまざまな「欲室」を想像し終えて、主体は「浴室」と正したのでしょう。その後主体は梅を観賞しにいっているのですが、「欲」に心を捉えられたひとときを浄化するような気持ちも窺うことができるのではないでしょうか。梅を見ることで、欲からはほど遠い清々しさが体を包み込んでいったのだと感じます。「欲」と「浴」。字面は似ていますが、一字違いで大きな違いを生む、そんなことも面白く感じさせてくれる一首ではないでしょうか。

泡立ちて来るまでを弾く白鍵の音ぞ四月の汗が混じりぬ

作者中津昌子
歌集『夏は終はつた』
tankalife

「泡立ちて来る」とは一体何が泡立ってくるのでしょうか。「白鍵の音ぞ」とあるので、ピアノの音が泡立ってくるようなイメージでしょうか。四月に弾くピアノの音がだんだんと熟してきて、四月とはいえど、ピアノを弾くという行為と春のあたたかさが相まって、汗ばんできたのかもしれません。さて、歌集においてこの一首のある一連に〈さくらはなびら泡のやうなる枝の下郵便ポストにうすきくちあり〉という歌があるので、泡立ってくるのは桜の花びらのことを指しているとも想像してみましょう。桜が泡立ってくる、つまり陽を浴びて徐々に花びらが広がっていくようなイメージでしょうか。外では桜が泡立ち、同時にピアノの音も泡立つ。そんな情景が浮かんできて、四月の桜の視覚的な印象、白鍵の音の聴覚的な印象、そして汗の触覚的な印象の五感情報が重ね合わさったような一首で印象に残ります。

四月尽咲いて散るだけの一生と思いこまれてうつむく桜

作者塚田千束
歌集『アスパラと潮騒』
tankalife

四月末、桜の見頃は過ぎ、もうすでに散ってしまった状況でしょうか。人は桜が咲けば花見などと盛り上がりますが、桜の咲く季節はあっという間で、桜はまるで四月にしか存在していないかのように捉えてしまっているのではないでしょうか。しかし、桜の木は花が咲いていなくても年中そこに立っていますし、生きているわけです。「咲いて散るだけの一生」と思うのは、開花している状態をあまりにも重要視しすぎている結果なのではないでしょうか。開花時期を終えた桜は、うつむいているように見えたのでしょうか。ひょっとすると人の一生も、この桜と同じように見られてはいないでしょうか。華やかな時期だけが人生なわけではなく、そうではない時期、不遇な時期、落ち込んだ時期もやはりその人の人生の一部なのです。目につきやすい華やかな部分だけを見るのではなく、むしろ華やかではない面をいかに見つめることができるのか。それが桜であれ、人であれ、一生を価値あるものにする見つめ方なのではないかと感じます。

四月からベトナムですね歩く時ヒールが右に傾くあなたは

作者川島結佳子
歌集『感傷ストーブ』
tankalife

「四月からベトナムですね」は「あなた」に対して発した言葉だと思います。「あなた」は職場で一緒に働く人だと思いますが、並んで歩いていたのでしょう。「あなた」が四月からベトナムに行くことを話題に挙げています。「あなた」とは特に仲がよかったわけではないのかもしれません。共通の話題もなく、おそらく異動か転職のことを訊いてみている場面でしょう。深い意味はないのかもしれません。それよりも主体が気になったのは、「あなた」が歩くとき、ヒールが右に傾いているという状況の方です。会話よりも、「あなた」の歩き方に意識がもっていかれている状態だと感じます。「右」「左」「傾く」といえば、色々と意味づけをすることも可能ですが、ここではあまり深く考えることは避けて、単純に歩く姿が右側に傾いているというふうに捉えておきたいと思います。「あなた」がベトナムにいってしまった後、主体が思い出すのはきっと「あなた」の顔ではなく、「あなた」の右に傾く姿なのではないでしょうか。

放精のときに震える鮭のように真面目に生きるしかない四月

作者小俵鱚太
歌集『レテ/移動祝祭日』
tankalife

「放精」とは、メスの鮭が産んだ卵に、オスの鮭が精子を放って受精させる行為のことです。放精の瞬間、オスの鮭はおそらく震えるのでしょう。正確には、震えるように見えているといった方が正しそうです。放精の鮭を喩えに挙げながら、主体は「真面目に生きるしかない」と詠っています。ここで疑問が湧いてきますが、「放精のときに震える鮭」は果たして真面目なのでしょうか。命をつなぐという点において、目いっぱい生きているオスの鮭は真面目といえるのかもしれません。ただオスの鮭自身が真面目と思っているかどうかまではわかりません。けれども主体には真面目に見えたのでしょう。自分を振り返ったとき、この鮭のように真面目に生きているのだろうかという問いが浮かんできたのではないでしょうか。四月という限定が、真面目に生きることを要請しているようにも思いますが、「しかない」に選択の余地が狭められてしまっている主体のあり方をも感じてしまう一首です。

菜の花のひとりひとりが手を振れりふたたび会えぬ四月 そのほか

作者駒田晶子
歌集『銀河の水』
tankalife

四月に、菜の花が咲き満ちている光景を目にしているのでしょう。春風に吹かれて、菜の花が揺れています。菜の花の一本一本がまるで「ひとりひとり」のように感じられているのでしょう。揺れている様子が、手を振っている姿に重なります。そのように感じるのは、主体が「ふたたび会えぬ」人々を思い浮かべているからなのでしょう。仲のよかった友人かもしれません。お世話になった同僚かもしれません。あるいはこれまで生きてきた中で出会ったすべての人かもしれません。とにかく、会えない人たちを思うとき、菜の花はやさしく揺れる様子を見せてくれるのです。「そのほか」とは具体的に何かわかりませんが、ひとことではいい表せないくらいのさまざまなことがあるのだと思います。そこには、余白のような広がりを感じますし、菜の花の咲くエリアがどこまでも広がっていくような、そんなイメージを思い浮かべることができ、黄に満ちた世界が輝いているように感じます。

三階の六年生の教室のまどは空しか見えない四月

作者山添聖子・葵・聡介 (掲出歌の作者は山添葵)
歌集『じゃんけんできめる』
tankalife

小学六年生の教室は三階にあるのでしょう。教室の窓からは空しか見えないと詠っています。したがって、主体の席は、窓際に最も近い席ではなさそうです。もし窓際に最も近い席だと、窓の向こうに見えるものは空だけでなく、山や街並み、運動場など、さまざまなものが視界に入ってくるのではないでしょうか。ですから、主体の席は窓際から離れた位置にあるのではないかと想像できます。窓から離れれば離れるほど、窓の向こうに見える範囲は狭められていきます。狭められることによって、三階の位置から見える世界には、空しかなくなるのかもしれません。四月といえば、六年生になったばかりのことでしょう。これから一年間過ごす六年生、そして小学校最後の学年は、無限の空へ通じる可能性を秘めているのではないでしょうか。「三」「六」「四」の数字のコンビネーションも印象に残る一首です。

死にたいと思う理由がまたひとつ増えて四月のこの花ざかり

作者虫武一俊
歌集『羽虫群』
tankalife

花ざかりの四月は、花にとっても人にとっても喜ばしい季節かもしれません。しかし、ここでは「死にたいと思う理由がまたひとつ増えて」と詠われています。生きていれば、どうしても思い描いた通りにいかない出来事も起こるでしょう。嫌なことなのか、恥ずかしいことなのか、気力をなくすことなのか、とにかく主体にとって「死にたいと思う理由」がひとつ増えてしまったのです。「また」とあるので、今回が初めてではありません。これまでいくつも理由を積み重ねながらも、ここまで生きてきて、この四月も迎えることができたのでしょう。救いは、「死にたい理由」ではなく「死にたいと思う理由」となっているところです。「と思う」となっている部分に、若干クッションのようなものを感じます。死と間近で直面しているわけではなく、死とは少し距離がある位置にいるように感じられることが、まだまだ主体は生きていけるのだろうという予感を生み出してくれるのではないでしょうか。

産み月の四月まことにあかるくて幾たびも幾たびも深呼吸する

作者佐藤モニカ
歌集『夏の領域 』
tankalife

四月に子どもが生まれる予定のようです。もうすぐ生まれてくる子のことを思うと、心はとても明るく、期待にあふれているのではないでしょうか。心の明るさは、四月の春の明るさと重なり、光に満ちあふれた光景が浮かんでくるように感じます。「幾たびも幾たびも深呼吸する」に、お腹にいる子と何度も通じている様子が感じられ、言葉はなくても会話しているような時間が想像できます。また、本当に待ち遠しい気持ちが伝わってきて、深呼吸の度に母も子も四月の光の中に輝いている、そんなふうに感じる一首です。

もはら用足すためにのみ本読みし四月の窓よ遠山の萌え

作者島田幸典
歌集『駅程』
tankalife

「用を足す」という言葉には、用事を済ませる意味とトイレに行く意味の二つがありますが、ここでは前者でしょう。本を読む喜びとは何でしょうか。純粋にその本を読みたいと思って読むからこそ、読書は楽しく貴重な時間となるでしょう。しかし、現実として、心から読みたい本ではないけれど、仕事や勉強のため仕方なく読んでいる本というのも少なからずあると思います。ここではそのような本を読んでいる四月の場面が詠われています。窓の向こうには遠い山並みが続き、春の草木の芽吹きが見られるのでしょう。「用足すためにのみ」読んでいる本は、本当のところ本にのめり込めないてはいないのではないでしょうか。それゆえ、しばしば本から顔を上げる。そうして窓に目をやる。といったことが繰り返されているのかもしれません。「遠山の萌え」はそんなひとときの心を癒してくれる存在として映っていたのではないでしょうか。

こでまりの影まで開花するごとき四月、ひかりのなか遅生まれ

作者吉田隼人
歌集『忘却のための試論』
tankalife

「遅生まれ」は4月2日から12月31日までに生まれた人を指す言葉で、1月1日から4月1日までに生まれた早生まれに対する言葉です。遅生まれのメリット・デメリットは色々とあるようですが、ここではそのようなことをあまり明らかにする必要はないでしょう。さて、上句から「こでまり」の白い花が浮かんできますが、その影までも開花しているように感じるほど、四月の明るさに満ちた光景が立ち上がってきます。そのような「ひかり」にあふれた空間に「遅生まれ」の人は誕生したのでしょうか。「影」が提示されながら、影の印象はすべて消え去り、残っているのは「ひかり」そのものです。「ひかり」は絶えることなく、ずっと輝き続けていくような、そんな印象の残る一首です。

卯月の短歌

4月は4月でも、「卯月」という表現に関わる短歌を取り上げています。

あましずく一つひとつが言葉なり傘それぞれに受けつつ卯月

作者松平盟子
歌集『うさはらし』
tankalife

卯月に雨が降っていて、街には傘を差す人たちであふれているのでしょう。それぞれの人がそれぞれの傘をもっています。雨の滴は、それぞれの傘に落ちてくるわけですが、滴ひとつひとつを「言葉なり」と詠っているところが魅力的です。雨は雨であり、滴ひとつひとつの違いに思いを馳せることはあまりありませんが、主体は「あましずく一つひとつ」に「言葉」を感じているのです。それら言葉は、滴によって異なるでしょうし、誰のもとにどの言葉が降っていくのかも違うでしょう。そんなことを想像すると、雨という大きな括りで見ていた現象が、とても小さな差異をもった集合体のように思えてきて新鮮に映ります。音の面では「受けつつ」「卯月」のU音の頭韻が耳に残りますし、まさに言葉ひとつひとつを受けとっているような感覚を覚えさせてくれる一首ではないでしょうか。

たれもなぜひとりであるか石舞台古墳ゆ卯月のメールを発す

作者渡辺松男
歌集『歩く仏像』
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石舞台古墳は奈良県明日香村にある石室古墳で、巨大な石が積み上げられている姿が目を惹きます。主体は石舞台古墳に今まさにいるのでしょう。「たれもなぜひとりであるか」を改めて自分自身に湧いてきた疑問として受けとめているのではないでしょうか。古墳という閉じられた空間に埋葬された死者を思うとき、「ひとり」という存在が浮き彫りになったのだと感じます。さてそのような思いをもちながら、メールを送ったようです。「ゆ」は「~から」の意味ですから、石舞台古墳にいる状況からメールを発信したということです。メールの内容は何だったのでしょう。誰宛てのメールだったのでしょう。そこははっきりしていませんが、ひとりという問いかけへの思考から、メールという人とのつながりへ移行しているところに、このときの主体の心の動きを見るように思います。卯月という時期が、さびしすぎず、熱をもちすぎず、適度な時期として歌の展開にマッチしている一首だと感じます。

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