「1月」に関わる短歌をピックアップしてみました。1月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
1月の短歌
1月、一月、いちがつなどの言葉が含まれる短歌を取り上げています。
一月の光の中の噴水に座っておにぎりを二つ食う
作者 | 永井祐 |
歌集 | 『日本の中でたのしく暮らす』 |

公園か植物園などにある噴水を見ながらおにぎりを食べている場面だと思いますが、一瞬噴水の真ん中に座っている錯覚に陥るところがポイントでしょう。実際は水に濡れる場所に座ることはないのでしょうが、その錯覚によって、一月のしんとした光と、噴水の水の清らかさが伝わってきます。最初と最後に配置された「一」と「二」の対比も意識されたものだと思います。光と水に包まれた時間が美しく、日常の場面が、”特別な”日常の場面として迫ってくる映像的な一首ではないでしょうか。
眠つたまま注いでくれる一月の夜に冷たい生茶だけれど
作者 | 林和清 |
歌集 | 『去年マリエンバードで』 |



「生茶」はキリンビバレッジが販売する緑茶飲料のことでしょう。「眠つたまま」とは、体を起こさずに横になりながらということでしょうか、それとも本当に睡眠状態にありながらということでしょうか。通常の考えでは、お茶を注ぐことができるのは眠っていない状態ですが、ひょっとすると後者かもしれません。そう思うと現実離れしていますが、そもそも自分も、注いでくれる相手も夢の中なのかもしれません。一月の夜の、生茶の冷たさだけが、浮き彫りになっていくような印象のある一首です。
一月のこんなところのたんぽぽを左の膝を汚して撮りぬ
作者 | 藤島秀憲 |
歌集 | 『すずめ』 |



一月にたんぽぽを見つけた喜びが静かに伝わってくる一首です。人目につきにくい場所に咲いていたのかもしれません。左の膝を汚しながらも、思わず写真に収めたくなる光景だったのでしょう。たんぽぽの生命力も感じられ、その生命力が主体の行動を促し、一月の寒さに負けないあたたかさをもたらしてくれる、そんな一首ではないでしょうか。
手は冷える心は冴える一月のはかない水が川面を満たす
作者 | 堂園昌彦 |
歌集 | 『やがて秋茄子へと到る』 |



一月の川面の水の美しさが伝わってくる歌ですが、その水は同時に儚さも湛えているのでしょう。川面を見ている自分自身は、手が冷えていけばいくほどに、心はより一層冴えていくのです。水の儚さは水に留まらず、冴えていく心にも儚さを照らし出しているような感じを受けます。透き通った冷たさが一首を貫いているのですが、川面は決して乱れず、その儚さをすべて受け入れている自分がいる、そんな印象の一首だと思います。
手をあらう子の手にわれの手を添える 一月なれば水は冷たし
作者 | 松村正直 |
歌集 | 『やさしい鮫』 |



触覚が前面に出た歌です。子はまだ小さいのでしょう。子が手を洗っているのですが、その際自分も一緒に手を洗い、子の手に自分の手を添えてみたのです。一月の水の冷たさが手に伝わってくると同時に、一方では子の手のぬくもりが感じられたのではないでしょうか。水の冷たさがあるがゆえに、余計に手と手の触れあいのぬくもりが際立って感じられると思います。手触りだけでなく、冷たさと温さの対比も伝わってくる一首です。
このまんま咲かないといい一月の奥行きをなす枝の交差は
作者 | 魚村晋太郎 |
歌集 | 『花柄』 |
詞書 | 美術館は美しい公園のなかにあつた |



木を見るとき、花が咲いていないと何となく残念な気持ちになることがありますが、この歌は「このまんま咲かないといい」と詠われています。「このまんま」といういい出しがいいですね。知らず知らずのうちに花が咲いているときがオン状態で、咲いていないときがオフ状態であるように捉えてしまいがちですが、見方を変えれば必ずしもそうともいえません。花が咲かないときの、木の枝が織りなす美しさを主体は感じているのです。奥行きのある枝の配置は、花が咲いた状態では決して味わうことのできない姿でしょう。
一月のホテルの窓に凭れつつ東京突端の海を見ている
作者 | 松平盟子 |
歌集 | 『うさはらし』 |



窓の外には一月の寒い景色が広がります。一方、ホテルの部屋の中は暖房が効いていて、外の寒さを感じないのではないでしょうか。直接的には一月の寒さに触れない状態で、東京突端の海を見ているわけですが、このときの感情は一体どのようなものだったのでしょうか。歌の調子からは晴れ晴れとした感情ではなく、物寂しげな様子が伝わってくるようです。「凭れつつ」に物憂げな感じがして、一月の海の寒さが一層効果を上げているのではないでしょうか。
山どりのくりかへし呼ぶほそきこゑ一月の空の下のまぼろし
作者 | 水沢遙子 |
歌集 | 『空中庭園』 |



山鳥の啼く声が繰り返し聞こえてきます。それはとてもか細い声で、今にも消えてしまいそうなくらいです。しかし、何度も何度もその声は耳に繰り返されるのです。空を見上げてみますが、そこに山鳥の姿はありません。何度も聞こえてきた山鳥の声は、幻だったのでしょうか。確かに啼き声を聞いたはずです。しかし、山鳥の姿が見えない以上、その声も果たして本当に存在したものだったのか、そのような思いが浮かんできます。現実と幻との間をいったりきたりして、揺れ動くような印象のある一首です。
ゆず、きんかん、レモン、ネーブル葉を鳴らし一月の陽のなかの収穫
作者 | 中津昌子 |
歌集 | 『むかれなかった林檎のために』 |



ゆず、きんかん、レモン、ネーブルはいずれもミカン科に属する植物で、その実はいわゆる柑橘類といわれる果物です。一月にこれらすべての種類を収穫している場面でしょうか。一月の寒さの中の陽射しは、いつも以上にあたたかく感じられ、柑橘類の黄色や橙色などの明るさに通じるものがあります。陽の恩恵によって得られた果実の豊かさがぐっと迫ってくる一首で、歌のリズム感とともに心が満たされる歌だと感じます。
絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある
作者 | 平岡直子 |
歌集 | 『みじかい髪も長い髪も炎』 |



菖蒲の見頃は初夏でしょうか。絵葉書に印刷された菖蒲園の様子は、おそらく晴れた日の昼間の様子であり、初夏の見頃のシーズンのときのものでしょう。それは最も菖蒲園が美しく映える時間帯と季節であり、絵葉書として、その時節が選ばれるのはごく自然なことです。しかし、この歌は絵葉書の写真そのままを受動的に見ているだけではありません。この絵葉書から、菖蒲園の「夜」を想像し、菖蒲園の「一月」を想像しているのです。見頃から考えれば、夜も一月も裏側に位置する時節でしょう。しかし、実際の菖蒲園には夜もあり一月もあるのです。絵葉書が隠していた、その当たり前のことを改めて気づかせてくれます。いや、それとも少し現実離れしますが、この絵葉書は静的なものではなく、動的なものであり、絵葉書自体に時節を超えていける何かを見い出しているのかもしれません。それほどこの絵葉書には、時間的にも空間的にも動きを感じさせてくれる何かがあるように思われる、そんな一首にも感じられます。
着膨れて私はとうに君からは隔たっている一月の午後
作者 | 花山周子 |
歌集 | 『屋上の人屋上の鳥』 |



一月は寒い時期ですが、一日の中でも陽が射していることもある午後は、朝夕に比べると寒さはまだマシな時間帯かもしれません。しかし、主体は厚着をして、君からは隔たったひとりの時間を生きていると認識しているのでしょう。「着膨れて」には動的な様子があまり感じられません。じっと同じ場所にいるような印象を受けます。他者とあまり関わりたくない心境なのでしょうか。重ね着された服が何かバリアのようなイメージすら与えてくれる一首です。
かろきかろき一月のすすき 穂の渦をまきこみながら争ひたかつた
作者 | 河野美砂子 |
歌集 | 『無言歌』 |



生きていく中で、できれば争いごとは避けて通りたいものです。しかし、ここでは「争ひたかつた」のです。「一月のすすき」はあまりにも手応えがなく軽すぎて、すすきの軽さに触れていると、争わなかったという事実への空虚な気持ちが芽生えたのかもしれません。「穂の渦をまきこみながら」に、相手とのぶつかり合いを希求する強さが表れているでしょう。結果として争うことなく、互いの関係は次のステージへ移ってしまったのでしょうが、そのタイミングで争わなかったことに後悔と寂しさが滲み出ているような一首です。
まっ青な空をカラスがとんでゆく近づきてまた遠き一月
作者 | 岡部桂一郎 |
歌集 | 『坂』 |



もうすぐ一月が、つまり新年がやってくる時期の歌だと思います。一月までの期間が短いような長いような、そのような感覚を感じているのでしょうか。もうすぐだと思えば、まだまだ日数があるというように、時間的長さに相反する思いが交錯するようです。日々の迷いや、思考の進退もあることでしょう。よく晴れた冬空をすっと飛んでいくカラスの姿が印象的であり、主体はそのカラスの自由な飛行をどこかでうらやましく感じているのかもしれません。迷いのある日常において、ときには迷いのなさの清々しさに憧れたりするものではないでしょうか。
一月の昼休み終えて教室に生徒のような貝が微動す
作者 | 染野太朗 |
歌集 | 『あの日の海』 |



教室で貝を飼っているのでしょうか。午前中は貝は動いていなかったののでしょう。いや、動いてはいたのでしょうが、主体にとって貝の動きの存在は見てとれなかったということでしょう。「一月の昼休み」が終わったとき、貝の微動に意識が向かったのだと思います。「生徒のような」という喩が面白いと感じます。貝は生徒ではないのですが、まるでクラスの一員であるかのようなポジションを獲得しています。午前中はじっとしていて、午後になると少し動くという実際の生徒も見られるのかもしれません。生徒と貝が重なるところがポイントです。また「微動す」という表現が逆に貝の存在感を最大限に引き立てているように感じる一首です。
睦月の短歌
1月は1月でも、「睦月」という表現に関わる短歌を取り上げています。
川干りて泥に小舟の傾げるを吾の睦月の近景とせり
作者 | 黒瀬珂瀾 |
歌集 | 『ひかりの針がうたふ』 |



時期は睦月。目の前のものをとても丁寧に詠うことで立ち現れる詩情を感じる歌です。まず、川の水がなくなったことで泥が現れ、小舟が傾いている様が過不足のない言葉として提示されます。そして小舟を中心とした景色を見ている「吾」が登場しますが、「吾の睦月の近景とせり」が非常に巧みだと感じます。受動的ではなく、その景に意識的に関わる吾の姿が感じられ、イメージが鮮やかに脳裏に広がっていく一首だと思います。
よくねむる病気になってさみしくて睦月おかえりなさい。花野へ
作者 | 井上法子 |
歌集 | 『永遠でないほうの火』 |



「よくねむる病気」とは何でしょうか。過眠症のようなものを指しているのでしょうか。この歌においては、そのような現実を当てはめようとするのではなく、むしろ眠りから夢のイメージを想像した方がいいように感じます。「おかえりなさい。」は夢から覚めた感覚でしょうか。それともさらに深い眠りに落ちていく様子でしょうか。いずれにしても眼前に広がるのは「花野」なのでしょう。「睦月」が再び巡ってきたときに感じるのは「花野」であり、その花野からは幸福感に近い明るさがあふれる、そのようなイメージが感じられはしないでしょうか。