自販機のタバコを取りにかがむときあはれそびらのさらすかずかず
小笠原和幸『定本 春秋雑記』(セレクション歌人『小笠原和幸集』掲載)
小笠原和幸の第三歌集『春秋雑記』(2000年)の改稿版『定本 春秋雑記』(セレクション歌人『小笠原和幸集』掲載)(2003年)に収められた一首です。
体全体の中で、その人のこれまでの人生が最も表れているように感じる部分はどこでしょうか。
“背中”に表れるとか、”背中”で語るというのは、よくいわれるのではないでしょうか。
掲出歌には、「そびら」つまり背中が登場します。「そびらのさらすかずかず」からまさに人生のさまざまを表している、そんな風に感じます。
では、その「そびら」がはっきりと存在を示すのはいつでしょうか。ひとつとして「自販機のタバコを取りにかがむとき」が詠われています。
自販機の取り出し口は下の方についていますから、出てきたタバコを取るには屈む必要があります。そのとき、否が応でも背中が強調されることでしょう。
もちろん主体が自分自身の背中を見ることができるわけではないので、主体が、タバコを取り出す誰か別の人の背中を見て感じた場面でしょう。しかし、同時に、主体が自分がタバコを取り出すときも同じように背中を晒しているということをひしひしと感じているのではないでしょうか。
単に立っているときよりも、自販機のタバコを取りにかがむときの方が、背中だけに焦点が当たるのかもしれません。
少し話は逸れますが、この歌を読んで思い出したのは、能條純一の『哭きの竜』というマンガに度々登場するフレーズ”あンた背中が煤けてるぜ”です。まさに背中が人生を物語るということを明快に示した言葉ではないでしょうか。
背中というのは、人生がよくも悪くも表れる体の一部なのだと思います。
掲出歌の「あはれ」「そびら」「さらす」「かずかず」といった平仮名表記を並べているところも味わいが出ているように感じます。この歌に登場する背中は、どちらかといえば、一点の曇りもない真に誇れる人生というよりは、どこか影を抱えた背中なのではないかと思います。
自販機のタバコを取り出すという一場面から、ひとりの人物が生きてきた時間的長さを感じさせてくれる歌で、印象に残る一首です。